城ヶ島の雨 歌詞の意味 北原白秋

北原白秋が生涯愛した三浦半島・城ヶ島の情景

『城ヶ島の雨』(じょうがしまのあめ)は、作詞:北原白秋、作曲:梁田貞により、大正初期の1913年10月に発表された楽曲。

北原白秋は同年、神奈川県三浦半島の南端に位置する三崎町へ移り住んでいた。『城ヶ島の雨』は、三崎町の対岸にある城ヶ島が題材となっている。

当時は、中山晋平が芸術座の劇中歌『カチューシャの唄』、『ゴンドラの唄(命短し 恋せよ乙女)』でプロデビューを果たしていた頃。

この『城ヶ島の雨』も、芸術座の島村抱月による依頼で作曲された。同曲は、北原白秋の詩に初めてメロディがつけられた楽曲としても知られている。

「利休鼠」や「通り矢」など、主な歌詞の意味については後述する。

【試聴】美空ひばり/城ケ島の雨

歌詞(作詞:北原白秋)

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓(ろ)でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

利休鼠 りきゅうねずみ

『城ヶ島の雨』の歌詞にある「利休鼠(りきゅうねずみ)」は色の名前。「りきゅうねず」とも読まれる。

緑色を帯びたねずみ色(灰色)で、具体的には次のような色が利休鼠と呼ばれる。

「利休(りきゅう)」といえば、豊臣秀吉の側近として活躍した茶人・千利休(せんのりきゅう/1522-1591)が思い出される。

小学館「日本大百科全書 ニッポニカ」では、次のように「利休鼠」の意味を解説している。

色名の一つ。利休色といわれる灰色がかった黄緑色に、鼠色が加わったもの。利休茶、利休柳などと同様に茶人の千利休(せんのりきゅう)にちなんでつけられた名。

抹茶(まっちゃ)の緑色と侘(わ)び茶の雰囲気を連想していわれた利休色に、鼠色を強めてさびた味わいを表した色合いである。

ただし、利休が愛用した色という意味ではない。

<引用:小学館「日本大百科全書 ニッポニカ」より>

利休鼠が千利休の名前に由来していることは確かだが、千利休がこの色を好んでいたかどうかについては意見が分かれているようだ。

通り矢

城ヶ島大橋がかかっている東側にはかつて岩礁が存在し、そこは潮の流れが速い「通り矢」と呼ばれていた。

潮が矢のように速く流れる様が「通り矢」の名前の由来と思われるが、源頼朝がここで通し矢をしたのが由来とする説もあるようだ。

現在、「通り矢」のあたりは堤防や埋め立てで整備されており、北原白秋が住んでいた頃の情景はすでに失われている。

写真:通り矢堤防と城ヶ島大橋(出典:monkeycast blog)

作曲者:梁田貞について

『城ヶ島の雨』作曲者の梁田 貞(やなだ ただし/1885-1959)は、北海道札幌市出身の作曲者。

東京音楽学校では中山晋平と同期で、卒業後は音楽研究の傍ら、中学・高校で教鞭を執っていた。

作曲だけでなく声楽にも通じており、1913年に『城ヶ島の雨』が初演された際には、梁田自身の歌唱で披露している。

代表作は、『どんぐりころころ』、『とんび』など。

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北原白秋が作詞した雨のうた

あめふり
あめあめふれふれ かあさんが  じゃのめでおむかい うれしいな
雨(雨がふります 雨がふる)
遊びにゆきたし 傘はなし 紅緒の木履も 緒が切れた