ハーバーズ・フェリー襲撃 ジョン・ブラウンの蜂起
アメリカ南北戦争にも影響を与えた英雄的活動家による決死の戦い
19世紀アメリカの英雄的活動家ジョン・ブラウン(John Brown/1800-1859)は、1859年10月16日、連邦の武器庫があったハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)を襲撃した。
彼は、日本の童謡『ごんべさんの赤ちゃん』原曲として知られる『ジョン・ブラウンの亡骸』で歌われた人物。
1850年代後半のアメリカでは、「流血のカンザス」で繰り広げられた北部自由州と南部奴隷州の戦いが、徐々に北部州が有利な状況となり、プランテーションで働いていた奴隷らの暴動が各地で多発していた。
奴隷救出の秘密組織「地下鉄道(The Underground Railroad)」の活動も盛んになったことで、奴隷らの一斉蜂起を促す機運が高まっていた。奴隷制度に反対していたジョン・ブラウンは、自らが身命を賭してその先駆けとなろうとしたのだった。
写真:ハーパース・フェリー(Harper's Ferry)
後に「ジョン・ブラウンの蜂起」とも呼ばれるこのハーバーズ・フェリー襲撃は、南北戦争における南軍指揮官ロバート・E・リー大佐によって鎮圧され、ジョン・ブラウンらは逮捕の後、処刑された。
ジョン・ブラウンの無謀ともいえるこの行動は、「流血のカンザス」で火がついたアメリカ全土で賛否両論の議論を巻き起こし、奴隷制度廃止に人々が真正面から向き合うための大きな歴史的契機となっていった。
1861年に勃発したアメリカ南北戦争にも精神的な影響を与えた。彼の死を題材とした流行歌『ジョン・ブラウンの亡骸』が北軍兵士らの間で歌われると、やがてその歌は南北戦争中に壮麗な歌詞へと改められ、アメリカ愛国歌『リパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic)』として歌い継がれていくことになる。
襲撃前夜
「流血のカンザス」で見られたような南部奴隷州による横行に憤激していたジョン・ブラウンは、1850年代後半に高まった奴隷解放の機運に乗じて、ついに長年温めていたハーバーズ・フェリー襲撃計画を実行に移していった。
カンザスでの戦いがほぼ自由州の勝利に終わるとの見通しがついた1859年7月、ジョン・ブラウンは、ミズーリ州から11人の屈強な奴隷に逃亡を持ちかけてカナダ国境近くまで連れ出し、西ヴァージニアの山地に武装した拠点「ケネディ・ファーム」を準備した。
挿絵:拠点となったケネディ・ファーム(出典: Institute for Advanced Technology in the Humanities)
ケネディ・ファームとは、メリーランド州シャープスバーグ(Sharpsburg, Maryland)にあるケネディ農場(kennedy farm)のこと。ハーバーズ・フェリーに近い場所だった。
農場に立てられた小屋は借り受けたもので、ハーバーズ・フェリー襲撃までのしばらくの間、ジョン・ブラウンとその仲間達はその小屋で寝泊りしていた。
襲撃当日
1859年10月16日、ついにジョン・ブラウンは6人の黒人を含む18人の同志とともにポトマック河を渡り、ハーバーズ・フェリーの兵器庫とライフル工場を占領した。
近隣の奴隷主は監禁され、その奴隷たちは、周囲の奴隷達にジョン・ブラウンらの言葉を広めるように指示された上で解放された。
写真:ジョン・ブラウンが立てこもったJohn Brown's Fort(移設復元)
ジョン・ブラウン等は奴隷主を人質に2日間立てこもったが、襲撃の知らせを受けて80人の海兵を率いて駆けつけたロバート・E・リー大佐(the command of Colonel Robert E.Lee)によって鎮圧され、ジョンブラウンらは逮捕されてしまった。
議論を巻き起こしたジョン・ブラウンの蜂起
ジョン・ブラウンの蜂起は、南部の奴隷主らを心底から青褪めさせ、北部の自由人の良心に激しい衝動を与えた。
北部のアボリショニストの中にも賛否両論が噴出し、事件直後の時期には、彼の精神を無条件に褒め称えつつも、その暴力的方法を非難する意見が多数を占めていたようだ。
挿絵:処刑を執行されるジョン・ブラウン(作:Thomas Hovenden)
ジョン・ブラウンの無謀ともいえるこの行動は、当時のアメリカ国民が漠然と感じつつあった奴隷制度に関する問題意識を明確にする大きなきっかけとなった。
つまり、奴隷制度が悪いことに異論はないが、それを平和的・合法的に話し合いで解決できるのか、それとも暴力的・革命的な方法でしか解決しえないのか、という問題を改めて人々の心に投げかけたのだった。
そして、奴隷制度の廃止及び奴隷の解放は、もはや平和的手段によっては為し得ないのだ、という世論を高めていった大きな歴史的契機となっていった。
彼の精神は行進し続ける
裁判にかけられ反逆罪で絞首刑が確定した後、ジョン・ブラウンを死刑の見張りから救い出す計画が、彼の友人達から密かに伝えられた。
しかし、ジョン・ブラウンは自分が死んだ方が自由のために有益であると言って、この申し出を断ったという。
1859年12月2日、ヴァージニア州チャールスタウンにおいて、彼は自らの意思で絞首刑に処された。
1861年4月にアメリカ南北戦争が勃発すると、奴隷反対の北軍陣地へ各地から数千人の逃亡奴隷が自由を求めて殺到したという。
それはまさに、ジョン・ブラウンが命を懸けて実現しようとした、奴隷自らの意思による解放の姿だった。
北軍兵士らの間で、彼の死を題材とした次のような流行歌『ジョン・ブラウンの亡骸』が歌われた。
John Brown's body lies
a-mouldering in the graveHis soul's marching on
ジョン・ブラウンの亡骸(なきがら)は
墓で朽ちていくが
彼の精神は行進しつづけるHe's gone to be a soldier
in the army of the LordHis soul's marching on.
彼は神の軍の兵士となった
彼の精神は行進しつづける
やがてこの流行歌は、南北戦争中に北軍側の女性作家ジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)によって荘厳な歌詞へと改められ、アメリカ愛国歌『リパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic)』として歌い継がれていくのだった。
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