鎌倉 歌詞の意味・歴史

鎌倉の観光名所や歴史上の人物が詰め込まれた歴史観光ガイドブック

唱歌『鎌倉』は、作詞:芳賀矢一、作曲:不詳、明治43年(1910)に刊行された「尋常小学読本唱歌」に掲載された。

歌詞では、鎌倉大仏や稲村ヶ崎、鶴岡八幡宮や静御前など、鎌倉の観光名所や歴史上の人物が取り上げられ、鎌倉の歴史観光ガイドブックのようなご当地ソングとなっている。

このページでは、歌詞に登場する鎌倉の主な観光名所や歴史上の人物について、歌詞だけでは分かりにくい項目を中心に簡単に解説していく。

【試聴】 鎌倉(明治43年)鮫島有美子

歌詞:『鎌倉』

七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい
稲村ヶ崎名将の
剣(つるぎ)投ぜし古戦場

極楽寺坂越え行けば
長谷観音(はせかんのん)の堂近く
露坐(ろざ)の大仏おわします

由比(ゆい)の浜辺を右に見て
雪の下村(したむら)過ぎ行けば
八幡宮の御社(おんやしろ)

上(のぼ)るや石のきざはしの
左に高き大銀杏(おおいちょう)
問わばや遠き世々(よよ)の跡

若宮堂(わかみやどう)の舞の袖
しずのおだまきくりかえし
返せし人をしのびつつ

鎌倉宮にもうでては
尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに
悲憤の涙わきぬべし

歴史は長き七百年(しちひゃくねん)
興亡すべて夢に似て
英雄墓は苔(こけ)むしぬ

建長円覚(えんがく)古寺の
山門高き松風に
昔の音やこもるらん

稲村ヶ崎と新田義貞

稲村ヶ崎の剣(つるぎ)投ぜし古戦場とは、鎌倉幕府を事実上滅亡に追い込んだ武将・新田 義貞(にった よしさだ)にまつわる伝説の場所。

写真:稲村ヶ崎(出典:じゃらん.net)

鎌倉時代末期の1333年5月に挙兵した新田義貞は、稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたところ、当時は崖で道が狭く、軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。

そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、見るまに潮が引いて干潟となったという伝説が『太平記』に記されている。

露坐の大佛

露坐の大佛(ろざのだいぶつ)とは、雨ざらしの大仏、つまり鎌倉大仏のこと。

鶴岡八幡宮と雪ノ下

雪の下村とは、かつて存在した地名「雪ノ下村」。現在の「雪ノ下」。吾妻鏡によると、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が、佐々木盛綱らに山辺の雪を貯蔵させたことが由来とされる。

「八幡宮」とは、鎌倉市雪ノ下にある鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)のこと。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。

鶴岡八幡宮の大銀杏

承久元年(1219年)1月27日夜、鶴岡八幡宮の石段(石のきざはし)を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏のそばで暗殺された。

鶴岡八幡宮の大銀杏

写真:鶴岡八幡宮の大銀杏(2008年12月/出典:ogu's blog)

残念ながら、2010年(平成22年)3月10日の未明、雪と強風のため、樹齢1000年を超えていた鶴岡八幡宮の大銀杏は、根本から倒伏してしまった。

「しずのおだまき」と静御前

「しずのおだまき」とは、源義経の妾・静御前(しずかごぜん)が捕らわれて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮の社前で頼朝に命じられ白拍子の舞を舞ったときの歌の一部。

しづやしづ しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな

しず(倭文)は織物の名前。苧環(おだまき)は、糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料。

歌の意味:おだまきから糸を繰り出すように(時間を巻き戻し)、義経様が「静よ静よ」と繰り返し私の名を呼んでくださったあの昔に戻れたらなぁ。

写真:鎌倉まつりでの「静の舞」(出典:鎌倉市観光協会Webサイト)

鎌倉宮と護良親王

鎌倉宮(かまくらぐう)は、 鎌倉市二階堂にある神社。 護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。

護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、後に足利尊氏と対立し、東光寺に幽閉されて命を落とした。

建長寺

建長寺(けんちょうじ)は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって創建された。

1886年(明治19年)、修行僧学校・宗学林を設立。現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身となる。サザンオールスターズ・桑田佳祐の出身校。

円覚寺

円覚寺(えんがくじ)は、鎌倉市山ノ内にある寺院。開基は北条時宗、開山は無学祖元。元寇の戦没者追悼のため弘安5年(1282年)に創建された。

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