ジョン・ブラウン、ハーパース・フェリーを急襲

リパブリック讃歌の謎/19世紀アメリカの歴史

1859年春、ブラウンは自分の息子達や同士の白人・黒人達とポトマック河上流のヴァージニア州ハーパース・フェリー(Harper's Ferry)の兵器庫の近くに農場を借り受けました。

写真:ハーパース・フェリー(Harper's Ferry)

そしてその年の10月16日、ついにブラウンは6人の黒人を含む18人の同志とともにポトマック河を渡り、ハーパースフェリーの兵器庫とライフル工場を占領しました。

近隣の奴隷主は監禁され、その奴隷たちは、周囲の奴隷達にブラウンらの言葉を広めるようにいわれて解放されました。

ジョン・ブラウン等は奴隷主を人質に2日間立てこもりますが、急襲の知らせを受けて80人の海兵を率いて駆けつけたロバート・E・リー大佐(the command of Colonel Robert E.Lee)によって鎮圧され、ジョンブラウンらは逮捕されてしまうのです。

写真:ジョン・ブラウンが立てこもったJohn Brown's Fort(移設復元)

奴隷制度問題を改めて浮き彫りにしたジョン・ブラウンの急襲

ジョン・ブラウンのこの襲撃は、南部の奴隷主らを心底から青褪めさせ、北部の自由人の良心に激しい衝動を与えました。

挿絵:処刑を執行されるジョン・ブラウン(作:Thomas Hovenden)

北部のアボリショニストの中にも賛否両論が噴出し、事件直後の時期には、彼の精神を無条件に褒め称えつつもその暴力的方法を非難する意見が多数を占めていたようです。

しかしブラウンのこの行動は、人々が漠然と感じつつあった問題、つまり奴隷制度が悪いことに異論はないが、それを平和的・合法的に漸次的に話し合いで解決できるのか、それとも暴力的な革命的な方法でしか解決しえないのか、という問題を改めて人々の心に投げかけ、もはや奴隷制度の廃止及び奴隷の解放は平和的手段によっては為し得ないという世論を高めていった大きな歴史的契機となっていったのです。

裁判にかけられ反逆罪で絞首刑が確定した後、ジョン・ブラウンを死刑の見張りから救い出す計画が彼の友人達から密かに伝えられました。

しかし、ジョン・ブラウンは自分が死んだ方が自由のために有益であると言ってこの申し出を断ります。1859年12月2日、ヴァージニア州チャールスタウンにおいて、彼はある意味自らの意思で絞首刑に処されたのです。

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リパブリック讃歌 歴史編 目次

  1. はじめに
  2. 西方へ拡大するアメリカ領土
  3. ゴールドラッシュの影響
  4. 秘密組織 「地下鉄道」とは?
  5. アンクルトムの小屋の影響
  6. カリフォルニアの自由州編入
  7. カンサス・ネブラスカ法成立
  8. カンサスへの移住競争
  9. カンサスへ移住するジョンブラウン
  10. 南部支持派のブキャナン大統領
  11. ついに立ち上がるジョンブラウン
  12. 燃え上がるハーパース・フェリー
  13. アメリカ分裂~リンカーンの苦悩
  14. 彼の精神は行進する
  15. 達成できなかった真の解放
  16. 参考文献

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