ハウ夫妻 演習の見学中に突然の南軍の攻撃

リパブリック讃歌の謎 The Battle Hymn of the Republic

サニタリーコミッション(Sanitary Commission)での成果が認められ、1861年11月にハウ夫妻はワシントンD.C.のポトマック河周辺に駐留していた北軍キャンプの演習に招待されました。

しかしこの演習中に運悪く南軍の急襲にあい、部隊は散々になって演習も中止となってしまいました。ハウ夫妻らもすぐに町に引き返すことになったのですが、町への帰路は同じく退却を始めた兵隊らで埋め尽くされ、たとえ馬車でも徒歩と同じぐらいのスピードしか出すことができませんでした。

クラーク氏からの提案

ハウ夫人が乗っていた帰りの馬車には、彼女が通っていた教会の牧師であるジェームズ・フリーマン・クラーク(James Freeman Clarke)も乗り合わせていました。

兵士らで埋め尽くされた道をノロノロと進む馬車の中で少しでも退屈を紛らわそうと、ハウ夫人らは当時流行していた行軍歌を思いつくままに歌って時間をつぶしていたのですが、到着間際になった頃に最後の曲として、「ジョン・ブラウンの身体(亡骸)(John Brown’s body)」という曲を歌って締めくくることになりました。

John Brown’s body lies a-mouldering in the ground;
John Brown’s body lies a-mouldering in the ground;
John Brown’s body lies a-mouldering in the ground;
His soul is marching on.

このメロディーと歌詞は当時の志願兵達の間で非常に流行しており、北軍の非公式な聖歌として位置づけられていた程に定着していたのですが、若干歌詞に露骨な表現や低俗な響きがあったため、さすがにそのまま北軍の行軍歌として公式に採用するには気が引けていた状態でした。

しかしこの曲を非公式なまま取り上げないのは惜しい程の人気ぶりであり、北軍の正式なアンセムとして相応しい洗練された荘厳な歌詞が北軍の人々の間で求められていたのです。

ハウ夫人は既にこの時までに数々の詩集を出版していて、詩人としての名前は広く知られていました。この馬車の中に乗り合わせていたジェームズ・フリーマン・クラーク氏も彼女の詩人としての活動を知っていたのでしょう。

そのハウ夫人と同じ馬車に乗り合わせて「ジョン・ブラウンの身体」の歌をうたうというこの絶好の機会に、彼はハウ夫人にこう尋ねたといいます。

"Mrs. Howe, why do you not write some good words for that stirring tune?"

「ハウ夫人、この心を揺さぶる曲に何か良い詩をつけてはいかがでしょう?」

このクラーク氏の挑戦に、ハウ夫人はこう答えたそうです。

"I have often wished to do this, but have not as yet found in my mind any leading toward it. "

「私も何度となくそうしようと思ったのですが、よい詩がひらめかないんです」

完成度の高い良い詩を求める彼女の詩人としての本能からか、この歌を北軍の行軍歌として相応しい詩を生み出そうと彼女も考えていたようですが、それがこの日までなかなか良い詩が思いつかず、彼女も幾分歯がゆい思いをしていたようです。

奴隷制を支持する南部連合軍との戦いにおいて、奴隷解放という同じ願いを抱きつつも非力で戦闘に参加できない彼女が北軍のために考えていたことがあるとすれば、それはやはりその才能を生かしてペンをとり、北軍兵士達の士気を鼓舞するべく高尚な歌詞を生み出していくことだったのでしょう。彼女は彼女なりに見えない敵と必死に戦っていたのです。

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リパブリック讃歌 誕生編 目次

  1. はじめに
  2. 父から受け継いだ血潮
  3. シークレット・シックス
  4. 特殊教育の道を開いたハウ氏
  5. ジュリア・ウォードとの出会い
  6. ハウ夫妻と北軍
  7. 真夜中の突然のひらめき
  8. もう一人のジョン・ブラウン
  9. エルズワースの亡骸
  10. グローリー・ハレルヤ
  11. 本当の作曲者は誰?
  12. メロディーの源流?
  13. ジョン・ブラウンの赤ちゃん
  14. 権兵衛さんの赤ちゃん
  15. ジョン・ブラウンの魂

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