ジュリア・ウォード 幅広い教養を身につけた才女

リパブリック讃歌の謎 The Battle Hymn of the Republic

ジュリア・ウォード(Julia Ward Howe/1819-1910)は1819年5月27日にニューヨークシティーで銀行勤めの裕福な家庭の3番目の子供として生まれました。

私立学校で文学・外国語・科学・数学などの様々な教養を次々と身につけ、音楽やボイストレーニングも受けていた他、小さな頃からフランス語、14歳でイタリア語、後にドイツ語・ラテン語・ギリシャ語などをすらすらと読みこなしていました。

赤褐色の髪に青い瞳、美しい声の三拍子に社交界ではとても人気があったようです。20歳の時には既に執筆活動も始めており、「the Literary and Theological Review and the New York Review」という文学批評誌で記事が匿名で掲載されていました。

「パーキンス盲学校」への訪問

1824年5歳のときに母親を、1839年二十歳の時に父親を亡くしてからは、1841年にボストンの兄弟の家を訪ねたりしていましたが、そのボストン訪問の時に友人等に当時アメリカで評判になっていた「パーキンス盲学校」に連れられていき、そこでサミュエル・G・ハウ校長と運命の出会いをすることになります。

年の差こそありましたがお互いに惹かれるものを感じ、1843年4月に(彼女は24歳、サミュエルは42歳)二人は結婚するのです。

1843年4月に結婚して、1週間後にはヨーロッパへ新婚旅行の船旅に出かけています(おそらく1年近く旅行していた)。

最初の子供は新婚旅行中の1844年にローマで生まれており、「シークレット・シックス」の一人であるセオドア・パーカーの教会で洗礼を受けています。12年で6人の子供を授かっていましたが、6番目の子供は幼くして病死してしまったようです。

彼女の文才を認めないサミュエル・ハウ氏

長い新婚旅行から帰ってからは、彼女は「パーキンス盲学校」でハウ氏の仕事の差ポートに忙しい毎日を送ることとなりました。育ちの良い社交界のお嬢様だったジュリアにとってはなかなか大変な毎日だったようで、日曜日にセオドア・パーカーの教会に通うのが彼女の唯一の楽しみとなっていました。

彼女は結婚してからも文学や歴史についての研究を続けており、詩集なども書き続けていたのですが、サミュエルは詩集や演劇などに価値をおいていなかったため、彼女はサミュエルに見つからないように常に気を使いながら文芸活動を続けなければなりませんでした。1848年には彼女の作品が匿名で含まれた詩文選集が出版されています。

しかし1854年に匿名で出版された詩集「Passion Flowers」がサミュエルに見つかってしまい、彼はこれに激怒し、結婚12年目にして二人は最大の破局の危機を迎えることになります。

サミュエルは女性に金銭的イニシアティブを握られるのを恐れていたようで、普段から彼はジュリアにお金を持たせようとしていませんでした。

彼女の作品が出版されて売れていけば彼女自身で収入を得られることになり、それは彼が最も避けたかった事のひとつだったのでしょう。それでも2人の子供が鎹(かすがい)となり、両者の歩み寄りもあって、なんとかこの夫婦の危機は乗り越えられたようです。

その後は1857年に詩集「Words for the Hour」を出版、同年に彼女の脚本による演劇「The World's Own」がニューヨークとボストンで初演、更に1859年にはセオドア・パーカーと一緒にキューバに行った時の旅行記がニューヨーク・トリビューン(the New York Tribune)から出版されるなど、彼女はプロの詩人として広く認知されるようになっていきました。

牧師ジェームズ・フリーマン・クラークとの交流

 ハウ夫妻はセオドア・パーカーの教会によく通っていたようですが、1860年にパーカーがイタリアで亡くなってからは、ジェームズ・フリーマン・クラークの教会(Church of the Disciples)に通い始めるようになりました。

クラークは奴隷制度反対や女性参政権獲得などの運動に積極的に参加しており、、ハーバード大学の非常勤講師や書籍編集活動の他、いくつかの著書も出版されています。

James Freeman Clarke : Copyright (c) American Memory collections ,The Library of Congress

医療活動に従事するハウ夫妻

1861年4月のサムター要塞砲撃により南北戦争が始まってからは、ハウ夫妻はthe Sanitary Commission.と呼ばれる戦傷者の治療・療養機関で活動していました。

当時の衛生環境は非常に劣悪で、戦闘による死者数よりも軍のキャンプで病死する数の方が多かったくらいであり、このthe Sanitary Commissionは当時の北軍にとって重要な役割をもった主要な機関の一つでした。

彼等の活動によって当時の衛生面の向上は著しく、1861年11月、その成果を称えられてリンカーン大統領から北軍部隊の演習にハウ夫妻は招待されることになります。

この演習にはジェームズ・フリーマン・クラークも招待されており、その演習見学からの帰路においてクラークがハウ夫人にしたある提案が、「リパブリック讃歌」誕生の大きなきっかけとなっていくのです。

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リパブリック讃歌 誕生編 目次

  1. はじめに
  2. 父から受け継いだ血潮
  3. シークレット・シックス
  4. 特殊教育の道を開いたハウ氏
  5. ジュリア・ウォードとの出会い
  6. ハウ夫妻と北軍
  7. 真夜中の突然のひらめき
  8. もう一人のジョン・ブラウン
  9. エルズワースの亡骸
  10. グローリー・ハレルヤ
  11. 本当の作曲者は誰?
  12. メロディーの源流?
  13. ジョン・ブラウンの赤ちゃん
  14. 権兵衛さんの赤ちゃん
  15. ジョン・ブラウンの魂

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