ラデツキー行進曲 Radetzky March

ヨハン・シュトラウス1世(Johan Strauss I/1804-1849)

美しく青きドナウ/ウィンナ・ワルツ名曲集

『ラデツキー行進曲 Radetzky March』は、毎年お正月(1月1日)にオーストリアのウィーンで開催されるニューイヤーコンサートにおいて、アンコールの大トリを飾る定番の行進曲。

日本でもテレビCMやテレビ・ラジオ番組などのオープニング曲やテーマ曲などで度々BGMとして使用されており、「曲名は分からないがメロディは知っている」という方も少なくないだろう。

作曲は、ウィンナ・ワルツの基礎を築いたウィーンの作曲家ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I/1804–1849)。その息子は、『美しく青きドナウ』、『こうもり序曲』などで知られるヨハン・シュトラウス2世

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、シュトラウス家の作品を中心にプログラムが組まれ、3曲演奏されるアンコールでは、『美しく青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』が必ず演奏されるのが定番となっている。

ヨハン・シュトラウス2世の代表作については、こちらの特集「ヨハン・シュトラウス2世の有名な曲 解説と試聴」を参照されたい。

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ラデツキー将軍を讃える愛国歌

曲名の「ラデツキー」とは、19世紀前半のオーストリアで活躍した貴族出身の軍人ヨーゼフ・ラデツキー(Joseph Radetzky von Radetz/1766–1858)。

ラデツキー将軍率いるオーストリア軍は、19世紀半ばに起こった北イタリア独立戦争において、当時オーストリア領だったイタリア北東部のロンバルド=ヴェネト王国での反乱を何度も鎮圧した。

この活躍を讃えるため、ヨハン・シュトラウス1世が晩年の1848年に作曲した愛国的行進曲が『ラデツキー行進曲 Radetzky March』である。なお、ヨハン・シュトラウス1世は、同曲を作曲した翌年の1849年9月に亡くなっている。

1848年イタリア独立戦争とは?

『ラデツキー行進曲』が作曲された頃のイタリアは、フランスやオーストリアなどの諸外国の王族によって支配された複数の小国が存在しており、現在のように国家が統一されていなかった。

北東部のロンバルド=ヴェネト王国では、歴史的にオーストリアが長い間支配を続けており、そこへラデツキー将軍が軍を率いてその守りを固めていた。

上挿絵:ミラノ市民がバリケードを築いてオーストリア軍に抵抗する様子(出典:Wikipedia)

1848年にはフランスで2月革命が起こり、王政が倒れ共和国が成立した。この革命の動きはヨーロッパ諸国に広がり、イタリアでもオーストリアの支配を受けていたロンバルド=ヴェネト王国の奪還するべく民衆の間で革命の機運が高まっていた。

3月にオーストリア本国で発生した「ウィーン蜂起」は特にイタリアの民衆を駆り立て、オーストリア領だったミラノとヴェネツィアで民衆蜂起が発生した。鎮圧に向かったラデツキー将軍だったが、数日間にわたる市街戦で民衆の激しい抵抗にあい、一時退却を余儀なくされる。

後のイタリア統一へつながる「ミラノの5日間」

ミラノ反乱軍による3月18日から22日の5日間にわたる激しい抵抗は「ミラノの5日間」と呼ばれ、後のイタリア独立戦争、そしてイタリア統一につながっていく。ミラノでは臨時政府も設立された。

ミラノでの民衆の活躍に奮起した西の隣国サルディーニャ王国(現在のイタリア北西部)はオーストリアに対して宣戦布告。ペスキエーラでの戦いなどで序盤は勝利を重ねたが、7月24日のクストーツァの戦いでラデツキー将軍率いるオーストリア軍に大敗を喫した(右写真:ラデツキー将軍像)。

ラデツキー将軍はミラノを奪還し、翌月に停戦協定を結んで、イタリア北部での反乱を見事制圧した。これらの活躍を讃えるとともに、オーストリアの国威発揚を期すべく、ヨハン・シュトラウス1世によって『ラデツキー行進曲』が作曲されたというわけだ。

なお、その後イタリアはフランスと手を組みオーストリア軍を打ち破り、1861年にイタリアの大部分を統一した形でイタリア王国が成立している。このイタリア統一運動についてはイタリア国歌のページでも解説しているので適宜参照されたい。

イタリア共和国国歌『マメーリの賛歌』 歌詞・日本語訳・解説

【試聴】ヨハン・シュトラウス1世 『ラデツキー行進曲 Radetzky March』

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