聖職者になったジョン・ニュートン
アメイジング・グレイスを作詞したイギリスの聖職者
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グレイハウンド号がたどり着いたアイルランドから故郷のイングランドに戻ったジョンは、父親が仕事で航海に出ていたため、父親の友人でありグレイハウンド号のオーナーであったマネスティ氏を訪ねた。
当時ジョンはまだ23歳という若さだったが、数々の修羅場をくぐりぬけて逞しく成長した精悍な面構えがマネスティ氏に気に入られ、彼の船の船長として働くことを勧められた。
ジョンはこの提案をとても喜んだが、正直自分にはまだ経験が足りないと感じていた。まずは船員として色々な事を学び、納得がいく仕事ができるようになってから船長として働きたいと、マネスティ氏に伝えた。
そこでマネスティ氏は、ジョンをハーディー船長(Captain Hardy)のブラウンロー号(the Brownlow)に一等航海士として乗船させ、将来の船長候補としての経験を積ませることにした。
奴隷貿易船だったブラウンロー号は西アフリカへ向かい、熱帯の厳しい気候の中、ジョンは昔のように、川に沿って黒人達を買い集める任務に従事していった。
乗組員や黒人達は熱病で次々に倒れ、黒人達の暴動で死傷者が出るなど、以前と変わらず大変な航海だった。
しかしジョンは、船の上で独学でラテン語の勉強を続け、聖書も少しずつ読み進めていき、知識と精神の向上に努め続けた。ジョンの中で、イエス・キリストの存在は日に日に大きなものとなっていった。
初恋の彼女へのプロポーズ
アフリカでの航海を終えて、リバプールへ戻ってきたジョン。一等航海士としての役目を立派に果たして帰ってきたジョンの姿を見て、マネスティ氏は約束どおり彼に船長の地位を与え、ジョンもこれを喜んで受け入れた。
次の航海シーズンまで時間があったため、ジョンはチャタムにいる初恋の彼女カトレット(ポリー)に会いに行きました。この頃彼女は二十歳過ぎで、ジョンは24歳になっていた。
実はブラウンロー号での出港前にも彼女に会いに行っており、彼女の素っ気無い態度にくじけそうになったジョンだったが、あきらめずにこれまで何度も彼女に思いの丈を手紙で伝え続けていた。
今回の訪問では何故か優しく接してくれた彼女に、ジョンは勇気を振り絞って結婚を申し込んだ。しかし、男女の駆け引きというものか、彼女はジョンの一回目のプロポーズを受け入れてはくれなかった。
だがジョンにとっては7年越しの恋。そう簡単に諦めるわけには行かなかった。日を改めて再度彼女にプロポーズしたが、これもまた彼女は首を縦に振ってはくれない。
きっと彼女は、ジョンがどれだけ自分の事を本気で想ってくれているのかを試したかったのだろう。
これまでいくつもの試練を乗り越えてきたジョン・ニュートン。2回ぐらいの失敗で諦めてしまう程やわな男ではなかった。
3回目のプロポーズの数日後、彼女はとうとうジョンの求愛を受け入れ、1750年2月12日、チャタムの聖マーガレット教会で二人はめでたく結ばれたのだった。
上写真:現在の聖マーガレット教会(出典:wikipedia)
船長として4年の航海
1750年8月にジョンが25歳の若き船長として乗り込んだのは、2本のマストを擁するスノー型帆船アーガイル号(The Duke of Argyll)だった。
彼の下についた30人の部下の模範となるべく、ジョンは規律の維持と食料の節制に努めた。
船内は定期的に清掃され、黒人の暴動が起きたときも冷静に対処し、当時にしては人道的な扱いを心がけていました。仕事の合間を見つけて、聖書やラテン語の勉強も続けていた。
ジョンはその後も順調に新たな航海をこなしていったが、ある時突然の病気に襲われたことがきっかけとなり、1754年の航海を最後に、船長の仕事から身を引いている。
牧師になったジョン・ニュートン
病気をきっかけに船を下りたジョン・ニュートンは、その後マネスティ氏の紹介を受けて、リバプールの潮流調査官を1755年から5年間務めた。
その後ジョンは、福音伝道家で英国教会の執事だったジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と出会い、彼の熱狂的な弟子となった。
一方で、これまで独学で学んできたラテン語にくわえ、ギリシャ語やヘブライ語まで独学の幅を広げ、メソジスト派の創設者であるジョン・ウェスリー(John Wesley)とも交流を深めていった。
写真:ジョン・ニュートンが牧師となったオルニー教会(出典:iago80)
その後、聖職者としての道を歩むことを決意したジョン。ヨークの大司教に一旦は拒否されたものの、イングランド東部のリンカーンの司祭から聖職位を授かり、イングランド中南東部バッキンガムシャー州にあるオルニー教会の牧師となった。
アメイジング・グレイス誕生
やがて詩人ウィリアム・クーパー(William Cowper)がオルニーへ移り住み、ジョンと親友になると、彼はジョンと行動を共にし、毎週の礼拝のための賛美歌を共同で書き上げた。
二人が書き上げた新たな賛美歌は、ジョン牧師が54歳の1779年に「オルニー賛美歌集」として発表された。
この「オルニー賛美歌集」に収められた一篇の詩にいつしかメロディが付けられ、イギリスからアメリカへ広まり、『アメイジング・グレイス Amazing Grace』と名前を変えて、世紀を超えて世界中の人々から愛されることとなった。
ジョンは1780年にはオルニーを去り、ロンドンの聖メリーウールノース教会(St. Mary Woolnoth, London)の司祭となって、それから晩年まで説教を続けた。
ジョン・ニュートンが人々に与えた影響は計り知れず、その中には後にイギリスにおける奴隷制度廃止運動の指導者となるウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)の名前もあった。
写真:オルニー教会にあるジョン・ニュートンの墓(出典:iago80)
82歳を迎えた1807年12月21日、ジョン・ニュートンは神の御許へ旅立っていった。晩年、彼はこんな言葉を残している。
"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」
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