ポーランド国歌

ポーランド共和国/Republic of Poland

ポーランド国歌『ドンブロフスキ将軍のマズルカ Dąbrowski's Mazurka』は、第3次分割によってポーランドが全ての領土を失ってから2年後、1797年にドンブロフスキ将軍がイタリアで率いた亡命ポーランド人部隊の軍歌として作曲された。

ポーランドのドンブロフスキ将軍

挿絵:ドンブロフスキ将軍(出典:Wikipedia)

当時のポーランドは国力が衰え、プロイセン、オーストリアロシア帝国の侵略によって領土は奪われ、全土が分割されて滅亡の憂き目に遭っていた。

ポーランドの国民的英雄ドンブロフスキ将軍は、当時フランス革命戦争中であったナポレオンと手を組み、ナポレオンが征服した北イタリアにおいてイタリア・ポーランド軍団を編成・指揮しオーストリア軍と戦った。

1807年、ナポレオンによりワルシャワ公国としてポーランド王国が復活したが、ナポレオン戦争の敗北(1815年)により再度プロイセン、オーストリア、ロシア帝国に分割されてしまった。

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歌詞の意味・和訳

Jeszcze Polska nie zginęła,
Kiedy my żyjemy.
Co nam obca przemoc wzięła,
Szablą odbierzemy.

ポーランドは滅びず
我等が生きる限り
外敵の包囲
サーベルにて打ち破らん

Marsz, marsz, Dąbrowski,
Z ziemi włoskiej do Polski,
Za twoim przewodem
Złączym się z narodem.

進め 進め ドンブロフスキ将軍
イタリアからポーランドへ
汝の指揮の下 国民は団結せり

ロシアの属国化 ショパンも海外へ

ロシア皇帝が元首として支配したポーランド立憲王国(1815-1867)では、ロシア帝国の完全な従属国として専制政治が行われ、ポーランドの民族運動は徹底的に弾圧された。

このため、多くのポーランド人はフランスなどに亡命したが、その中には世界的に有名なポーランド出身のピアニスト、フレデリック・ショパン(1810-1849)も含まれていた。ショパンは1829年にワルシャワ音楽院を首席で卒業後、1831年にパリへ向かった。

1830年 ワルシャワ蜂起

1830年11月、ロシア帝国が支配するワルシャワにて、士官学校生徒らによるクーデターをきっかけとして、武装したポーランド市民がロシア軍に対して一斉蜂起した。いわゆる「ワルシャワ蜂起(11月蜂起)」の勃発である。

挿絵:オラース・ヴェルネ作 11月蜂起失敗の寓意

ワルシャワ蜂起は各所で成功を収めたが、結局は数的にも軍備的にも優位なロシア軍に鎮圧されてしまった。ただ、ポーランド反乱軍は不利な状況ながらも非常に善戦し、もし1828年の露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国の戦争)中に蜂起を起こしていれば、結果は違っていただろうとの積極的評価もあるようだ。

ショパン『革命のエチュード』作曲

1831年、オーストリアからフランスへ向かっていた音楽家フレデリック・ショパンは、その途上でワルシャワ蜂起失敗の報に接した。

祖国の悲運に嘆き悲しんだショパンは、その憤懣やる方ない思いを楽曲に込め、ピアノ独奏曲『エチュード(練習曲)ハ短調』(作品10-12)を完成させたという。この練習曲は後に『革命のエチュード』と呼ばれることになる。

写真は、ポーランドのワジェンキ公園内にあるショパン像。ヤナギの木の根元に腰を掛けている。頭上の枝は、ピアニストの手と指を象徴しているという。

オリジナルの銅像は、第二次世界大戦中にドイツ軍によって破壊された。地元の言い伝えによれば、破壊された翌日、その場には手書きのメッセージが残されていたという。

「私を壊した者が誰かは知らないが、その理由はよく分かっている。お前たちの指導者のためには、私は決して葬送行進曲を演奏することはない。」

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