ペドロ1世(ブラジル)とポルトガル
世界史・国際関係トピックス
ポルトガル議会は、立憲君主制の新体制を構築すべく、ブラジルに移ってしまったポルトガル王室の帰国を強く要求した。
連合王国の王ジョアン6世(John VI)は、イギリスの支配から脱するまたとない機会ということもあり、反乱軍に対して抵抗することもなく、本国ポルトガルへの帰国を決定した。
ペドロ王子を残しポルトガルへ帰国
ブラジルには摂政として、ジョアン6世の息子ドン・ペドロ王子(右挿絵)と妻マリア・レオポルディナ(Maria Leopoldina)が残った。
ジョアン6世がブラジルを去る1821年4月下旬、ポルトガルへ出港する2日前に、王は息子ペドロにこう言い残したという。
「ペドロよ、もしブラジルがポルトガルと袂を分かつことになったら、王に反旗を翻した革命分子ではなく、王族であるお前が独立を導くのだ。」
ブラジルの再植民地化を図る革命政府
1808年のブラジル遷都以来、植民地ブラジルと同格の連合王国となったポルトガルでは、王室を失いイギリスに占領され実質的に植民地的な扱いに甘んじていた。
イギリス排除に成功し、ジョアン6世を帰国させ王室を取り戻した今、かつてのポルトガル王国の威厳と独立を取り戻すべく、ポルトガル議会はブラジルに対して強い行動に出るようになる。
ペドロ残留を嘆願するブラジル国民
1821年後半になると、ポルトガル議会コルテスはリオデジャネイロの中央政府を解散させ、ペドロ王子にポルトガルへの帰国を命じた。これは多くのブラジル人にとって再植民地化の始まりを意味するものであり、ペドロ残留への嘆願書が8,000名以上の署名を集めた。
ペドロ王子は王族でありながらリベラルな思想の持ち主で、1810年のアルゼンチン独立、1818年のチリ独立、1821年のメキシコ独立、ペルー独立など、ブラジルを含む当時のラテン・アメリカ諸国の独立に対しても理解を示していた。
八千人の嘆願書を受け、ペドロ王子はこう言ったという。「私が残ることがブラジル国家全体の幸せにつながるのなら、喜んでそうしよう。人々に伝えよ、私はブラジルに残ると!」
立ち上がるペドロ王子
1822年、ブラジル国民のために立ち上がったペドロ王子は、王子側についた王室軍隊や民兵、武装市民らを組織し、ポルトガル革命政府側で反乱を起こした将軍らと対峙。数で勝るペドロ王子の軍勢はポルトガル軍を包囲し降伏させ、ブラジルからポルトガル本国へ追放した。
上挿絵:ペドロ王子(中央右)がポルトガル革命政府軍を本国へ追放する場面
ペドロ王子は、独立への支援を求めてブラジル各地を巡り、多くのブラジル国民から熱い歓迎を受けた。独立への機運は高まる一方だったが、この時はまだペドロ王子はポルトガル革命政府との見せかけ上の友好を保っており、決定的な断絶には至らぬよう配慮していた。しかし、ポルトガルからの一方的な通告により、事態は一気に最終局面へとなだれ込んでいった。
ブラジル独立までの歴史
- ポルトガルのブラジル遷都 ナポレオン戦争
- ナポレオン(フランス)に追い出されてポルトガルは植民地ブラジルへ遷都
- イギリスがポルトガルを占領
- ブラジルへ遷都後、本国ポルトガルがイギリスに占領されてしまう
- ペドロ1世(ブラジル)とポルトガル <このページ>
- イギリスを追い出したけど、ブラジルからペドロ王子が帰ってこない
- ブラジル独立 イピランガの叫び
- ポルトガル議会『独立は許さん』 ペドロ王子『独立か、死か!』
- イピランガ公園の独立記念像
- 「イピランガ」とは「赤い川」を意味している
ブラジル関連ページ
- ブラジル国歌
- イピランガの川岸から聞こえる 鳴り響く勇者達の雄叫び