ビルマ独立運動とアウンサン

世界史・国際関係トピックス

1940年当時、中国と日中戦争の最中にあった日本は、英米等から中国への軍事物資の輸送ルート(援蒋ルート)の一つ「ビルマルート」遮断のため、ビルマ国内の独立派勢力と秘密裏に提携し協力関係を深めていた。

アウンサン日本へ 「30人の同志」

1940年6月、鈴木敬司大佐は新聞記者「南益世」の偽名でビルマに入ると、イギリスに指名手配され亡命中のアウンサン(スーチー氏の父)やラミヤンらを日本へ招き、鈴木の故郷である静岡県浜松市にかくまった。

右写真:アウンサン(タキン・オンサン)

アウンサン来日が契機となり、1941年2月1日、鈴木大佐を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足。

ビルマ独立運動家の青年30名をアウンサンらの手引きで密かに国外へ脱出させ、独立戦争に必要な軍事訓練を施すと、彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させた。この30名が、後にビルマ独立の伝説となる「30人の同志」である。

ビルマ独立義勇軍 誕生

1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始されると、同月28日、鈴木大佐を司令官とするビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army / BIA)が設立された。

メンバーは「30人の同志」たちのほか日本人将校・義勇兵らも加わり、アウンサンは高級参謀としてその任に就いた。

写真:鈴木大佐(最前列の右から3人目)とアウンサンら「30人の同志」

ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募り、軍事訓練を施しつつ進軍すると、設立当初は200人にも満たなかった兵力は、ビルマ攻略戦終結時には3万人近くに達していた。

1942年7月にはビルマ防衛軍(BDA)が創設され、ビルマ独立義勇軍および鈴木大佐率いる「南機関」は解散となった。

ミャンマー(ビルマ)の歴史

イギリスの植民地ビルマ
ビルマ王朝はイギリスに1885年に滅ぼされた
ビルマ独立運動とアウンサン <このページ>
イギリスに狙われたアウンサン日本へ 特殊訓練後ビルマへ再潜入
アウンサンの夢 ビルマ連邦誕生
イギリスに裏切られたアウンサン 真のビルマ独立へ
アウンサンから鈴木大佐への感謝の言葉
たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶことはない

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