背くらべ

柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ

「柱のきずは おととしの」が歌い出しの『背くらべ』(背比べ/せいくらべ)は、5月の端午の節句の様子が描かれた日本の童謡

中山晋平作曲、海野厚作詞により大正時代に発表された。

『こいのぼり』、『茶摘み(夏も近づく八十八夜)』などと同様に、毎年5月頃になると耳にする季節の一曲。

五月五日の背くらべ

【YouTube】背くらべ(せいくらべ)

歌詞

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

柱のキズは何故「おととし」?

さて、童謡『背くらべ』の歌詞を見ると、柱のキズは「おととしの」5月5日につけたとされているが、何故「昨年」のキズではないのか?と素朴な疑問が生じる。実はこの疑問を解くカギは、作詞者である海野の経歴に隠されていた。

海野 厚(うんの あつし/1896-1925)は、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の出身。7人兄弟の長兄。旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学するため、地元の静岡を離れ一人上京している。

童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ、海野は童謡作家となった。都会の生活にも慣れ、俳句や童謡の世界に没頭した海野は、病弱だったこともあり、1919年を最後に地元の静岡には帰郷していないという。

弟は元気に暮らしているだろうか?

実家には3人の妹と3人の弟がいた。中でも17歳年下の春樹は、海野にとって特別に可愛い存在だったという。しばらく帰っていない地元で暮らす可愛い弟。

もう2年も帰省していないが、弟は大きくなっているだろうか?元気に暮らしているだろうか?そんな切ない思いが童謡『背くらべ』の歌詞に込められているという。

中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版し、雑誌「海国少年」の編集長も務めた海野だったが、1925年5月20日、結核のため28歳の若さで亡くなっている。

彼の母校である静岡市の西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。

端午の節句(たんごのせっく)とは?

端午の節句(たんごのせっく)は、古来中国では邪気を払い健康を祈願する日とされ、野に出て薬草を摘んだり、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりする風習があった。

この風習が日本で独自の変化を遂げたのは鎌倉時代の頃。「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになったという。

五月人形を飾り、庭前に鯉のぼりを立てるのが日本での典型的な祝い方である。ちなみに、柏餅(かしわもち)を食べる風習は日本独自のもの。柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていったようだ。

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