平城山 ならやま 歌詞の意味

夫の弟子に恋をした詩人・北見志保子の短歌に基づく歌曲

『平城山(ならやま)』は、詩人・北見志保子の短歌に基づき、『とんぼのめがね』で知られる平井康三郎が曲をつけた日本の歌曲。1935年(昭和10年)作曲。

平城山丘陵には、第16代仁徳天皇の皇后「磐之媛命(いわのひめのみこと)」の陵として知られる「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」、別名「ヒシアゲ古墳」がある。

平城山丘陵 ならやま

磐之媛命(いわのひめのみこと)は、古事記では嫉妬深い人物として記述されており、歌曲『平城山』の歌詞は、仁徳天皇への磐之媛命の心情が題材となっている。

写真:若草山から望む平城山丘陵(出典:ブログ「ばってんの写真生活」)

【試聴】平城山 鮫島有美子

歌詞

人恋ふは
悲しきものと
平城山(ならやま)に
もとほり来つつ
たえ難(がた)かりき

古(いにし)へも
夫(つま)に恋ひつつ
越へしとふ
平城山の路に
涙おとしぬ

歌詞の意味・現代語訳

人を恋することは悲しいものだと
平城山を巡りながら つらく感じた

昔の人も恋焦がれつつ越えたという
平城山の道で 私は涙を落とした

古語の意味

「もとほり来つつ」の「もとほり」とは、古語「もとほる」の連用形で、「廻る、巡る、さまよう」などの意味。

「夫(つま)」については、万葉集の時代には、現代のように夫から妻を呼ぶときだけではなく、妻から夫を呼ぶときにも「つま」が用いられていた。

「越へしとふ」の「とふ」は、言い伝えなどを表す「~という」の意味。

仁徳天皇と磐之媛命

歌曲『平城山』の題材となった皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)は、仁徳天皇など5代の天皇に仕えた忠臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫娘。皇族外の身分から皇后となった初例とされる。

上述のとおり、磐之媛命は古事記において嫉妬深い人物とされており、仁徳天皇が他の妾と会うためには、宮殿の外か、磐之媛命が留守の時を見計らう必要があったという。

ある時、磐之媛命が紀伊の国へ出かけた際の留守中に、仁徳天皇は異母兄妹の八田皇女(やたのひめみこ/やたのおうじょ)を宮中に迎えた。

これに激怒した磐之媛命は外出先から帰らず、実家の葛城高宮近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して、以後そこに暮らした。

仁徳天皇が面会に来ても会うことはなく、磐之媛命は二度と天皇の元へ戻ることはなかった。磐之媛命の没後、八田皇女が皇后となった。

研究者の大久間喜一郎は、磐之媛命が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の磐之媛命に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかと考察している。

人妻・北見志保子の恋

北見志保子(きたみ しほこ/本名:浜あさ子/1885-1955)は、高知県出身の歌人。同じく高知県出身の歌人・橋田 東聲(はしだ とうせい/1886-1930)と結婚した。

橋田 東聲の弟子には、後に千代田生命保険の社長となる浜忠次郎がいた。北見志保子は、12歳年下の若い浜忠次郎と恋に落ち、橋田 東聲と協議離婚後、浜忠次郎と再婚した。

ネットを検索すると、歌曲『平城山』の原詩である北見志保子の短歌は、彼女の浜忠次郎への恋心を、磐之媛命(いわのひめのみこと)が仁徳天皇に寄せた思いに重ねて詠んだ作品であるとの解説が見られる。

確かに、人妻という立場は同じであるし、恋の苦しみという点も通じるものがあるが、磐之媛命の場合は夫への想いであり、北見志保子の場合は12歳年下の不倫相手への想いであることから、これを重ね合わせたと解釈することには違和感がある。

この点、歌曲『平城山』の原詩と浜忠次郎は関係ないと北見志保子自身がコメントしているとのネットの記述を見かけたが、やはりこの歌と浜忠次郎の件を結びつけるのは若干無理がありそうだ。

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