石狩挽歌 歌詞の意味

北海道の石狩湾でかつて隆盛を極めたニシン漁への複雑な想い

『石狩挽歌』(いしかりばんか)は、かつて北海道の石狩湾(いしかりわん)で盛んだったニシン漁を題材とした演歌。1975年6月に北原ミレイの歌で発表された。

作詞は、北島三郎『まつり』や細川たかし『北酒場』を手がけた、なかにし 礼(中西 禮三)。

作曲は、八代亜紀『舟唄』(1979年)、『雨の慕情』(1980年)で知られる浜圭介。

八代亜紀、石川さゆり、水森かおり、坂本冬美など、多数の演歌歌手がカバーしている。

ニシン漁 北海道

写真:現代のニシン漁(出典:水産北海道ブログ)

明治末期から大正・昭和初期にかけて、石狩湾などの北海道沿岸ではニシンの漁獲量が最盛期を迎えており、ニシン漁で財を成した網元による「ニシン御殿」が建ち並んだ。

『石狩挽歌』作詞者・なかにし礼は、石狩湾がある小樽市で小学校時代を過ごしており、彼の兄は一攫千金を狙って、多額の借金をしてバクチのようなニシン漁を行った。

見事大漁に恵まれたが、欲を出して、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、せっかくのニシンを腐らせてしまった。全てを失い、膨大な借金だけが残ってしまった作詞者の兄。多額の借金を背負って、一家は離散してしまった。

『石狩挽歌』の歌詞には、ニシン漁で失敗した作詞者の兄(15歳年上)に対する複雑な想いが込められているという。

このページでは、『石狩挽歌』の歌詞について、分かりにくい語句や地名の意味を簡単に解説・補足していく。

【YouTube】石狩挽歌 北原ミレイ

歌詞の意味・解説

『石狩挽歌』の歌詞には、若干意味の分かりにくい語句や、北海道の地名・名称がいくつか登場する。

作詞:なかにし礼による『石狩挽歌』の歌詞を次のとおり引用して、語句の意味を簡単に解説・補足してみたい。

1.
海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
わたしゃ夜通し 飯(めし)を炊(た)く

あれからニシンは
どこへ行ったやら
破れた網は 問い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー

沖を通るは 笠戸丸(かさとまる)
わたしゃ涙で
にしん曇りの 空を見る

2.
燃えろ篝火(かがりび) 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ
ソーラン節に 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳(ひ)く

あれからニシンは
どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー

かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で
娘ざかりの 夢を見る

一番の歌詞だけでも、海猫(ごめ)、筒袖(つっぽ)、やん衆など、あまり馴染みのない語句が散見される。これらの意味について、次のとおり解説していく。

ちなみに、『石狩挽歌』の『挽歌(ばんか)』とは、歌謡曲の世界においては、悲しみを表現した歌のこと。元々は、人の死を悼んで作る哀悼歌、葬送歌を指した。

海猫(ごめ)

ウミネコのこと。チドリ目カモメ科カモメ属。ニシンの群れに沿って集まってくる。

カモメの語源は、幼鳥の斑紋が籠の目(かごのめ)と似ていることに由来するが、同じカモメ属のウミネコが「ごめ」と呼ばれるのも同じ理由と推測される。

ウミネコ

写真:ウミネコ(出典:Wikipedia)

筒袖(つっぽ)

袂(たもと)が無い筒状の袖。作業着・労働着として、東北地方の漁村で漁師(網衆)が主に着用した。

やん衆

一獲千金を狙って北海道のにしん漁などで働く気の荒い雇われ漁師。東北出身者も多く、出身地域を指して「秋田漁夫」「南部漁夫」などと文書に記録された。

語源は定かではない。石狩地方では古くから「石狩ヤン衆」という呼び名があるが、これはもともと石狩のサケ漁場で「やんちゃ者」の漁夫を指していた、との解説も見られた。

番屋(ばんや)

ニシン漁師が宿泊する小屋。猟師などが寝泊まりする山小屋。

問い刺し網

浮子(うき)の付いた刺し網の一種。

刺し網(さしあみ)は、魚をとるための漁網の一種で、魚の頭部が網目に刺さるように入り込むのでこう呼ばれる。刺し網を用いておこなう漁法を刺網漁という。

オンボロロ

物が古くなって傷み、ぼろぼろの状態を指す「おんぼろ」の末尾が繰り返された表現。

「ねんねこ しゃっしゃりませ」が歌いだしの『中国地方の子守唄』では、「オンボロロ」のように「ラ行」を重ねた「ねんころろん」という歌詞が歌われる。

笠戸丸(かさとまる)

笠戸丸は、明治時代後期にハワイやメキシコ、ブラジルへの移民船として使われた鋼製貨客船。

その後は商船となり、昭和初期には漁業工船として改装され、終戦まで水産会社で活躍した。

1945年8月9日、笠戸丸はソ連軍により拿捕され、爆撃で沈没させられた。

笠戸丸 かさとまる

写真:笠戸丸(出典:全日本海員組合Webサイト)

にしん曇り

北海道近海で、ニシンがとれる頃に多い曇り空のこと。3月から5月頃。春の季語。

篝火(かがりび)

夜間、魚を集めるために漁船でたくかがり火。漁火(いさりび)。今日では集魚灯など電気照明に変わっている。

朝里(あさり)の浜

石狩湾の奥部に位置する朝里地区の砂浜。直径2mm以上の礫(大小様々な大きさの石)が半分以上を占める石浜。夏には朝里海水浴場が開設される。

オタモイ岬

小樽市北部のオタモイ海岸にある断崖絶壁の岬。「オタモイ」とはアイヌ語で、「砂浜のある入り江」を意味するという。

オタモイ岬 北海道小樽市

写真:オタモイ岬(北海道小樽市/出典:ブログ「屯田物語」)

ニシン御殿

ニシン漁で財を成した網元達が、競って造った木造建築物。様式は古くは平屋形式で、屋根は瓦葺き。高価な木材や生漆(きうるし)が使用された。

網元の居宅であると共に、ニシンの加工を行う漁業施設でもあった。ヤン衆の宿泊施設も併設され、ニシンの見張り台も設けられた。

ニシン御殿 旧青山本邸 札幌市厚別区

写真:復元されたニシン御殿 旧青山本邸(札幌市厚別区/出典:Wikipedia)

古代文字とは?

北海道小樽市の手宮洞窟(てみやどうくつ)は、1866年に発見された壁面の彫刻で有名。イギリスの考古学者ジョン・ミルンは、古代文字か鳥獣画ではないかとの仮説を立てた。

『石狩挽歌』の歌詞における「古代文字」とは、この手宮洞窟の壁面彫刻を意味している。

手宮洞窟の彫刻 古代文字 北海道小樽市

写真:手宮洞窟の彫刻(北海道小樽市/出典:グランドパーク小樽 公式サイト)

この彫刻が刻まれた時代は、今からおよそ1,600年前頃の続縄文(ぞくじょうもん)時代中頃から後半と考えられている。弥生時代の終わり頃から古墳時代の初期にあたる。

現在の研究により、壁面彫刻は「古代文字」ではなく、岩壁画と良く似た古代の彫刻画であると判明している。

手宮洞窟では「角のある人」の他、手に杖のようなものを持った人や、四角い仮面のようなものをつけた人などが描かれており、祈祷やお告げをするシャーマン(呪術者・祈祷師)を表現したものではないか、という説が有力。

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