1856年大統領選挙
南部支持派の民主党ブキャナン大統領が勝利

リパブリック讃歌の謎/19世紀アメリカの歴史

1856年の大統領選挙では、結成して間もない共和党(奴隷反対派)は、「カンサスの流血」、「自由な言論、自由な土地、そしてフレモント」等の標語を掲げ健闘しました。

しかし、奴隷主派のジェイムス・ブキャナン(James Buchanan/1791-1868)(上写真)を候補に立てた南部奴隷州が、「もし共和党大統領候補のフレモントが当選するなら南部諸州は連邦から脱退する」と脅迫じみた宣布行為を行ったこともあり、結局奴隷賛成派の民主党ジェイムス・ブキャナンが大統領選に勝利しました。

南部の暴力的支配の失敗

カンサスへの移住競争は、南部側の奴隷主の手先らによる「不自然」な移住に対して、ミシガンやウィスコンシン等の北部側の開拓農民らの極めて自然な開拓移民の流入により、否応なしに自由州の方向へ発展していきました。

1858年には自由州側は準州議会を制し、奴隷州側の憲法の採択も拒否、着々と自由州側への編入の準備を進めていくなど、次第に不利な状況になっていく奴隷派はなお暴力に訴えることをやめず、1858年5月にも自由派を殺傷する事件を起こしています。

しかし、もはや自由派有利の体制を覆すことはできない状況であり、南部派の武装団によるカンサスの暴力的支配が失敗したことは明らかになっていました。

ドレッド・スコット判決 ~極まる南部の横暴~

こうした南部派不利の情勢においても、1856年の大統領選挙で勝ち得た民主党(奴隷支持派)政府のもとに、奴隷主派の奴隷制度強行維持の姿勢は弱まるどころかますます激化していくことになります。

1857年のドレッド・スコットという黒人をめぐる裁判における最高裁判決において、最高法廷で奴隷制度の問題を奴隷賛成派に有利に解決させようと図った南部奴隷主派は、南部派の判事らに様々な圧力を加えることで、次のような判決を下させました。

ドレッド・スコット判決 1857年

・「数年間自由州に住んだからといって本来の奴隷身分は解消されない」
・「連邦国会は領地の奴隷制度を禁じる権限はない」
・「ミズーリ協定は憲法違反である」
・「奴隷は私有財産であって、基本的人権は持たない」

この判決は、アメリカがまさに奴隷制度を容認し、司法的側面から奴隷主国家としての宣言を行ったに等しい行為であり、このようなアメリカ民主主義に対する奴隷派による恥知らずな挑戦に対して、北部人は激しく憤慨しました。

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リパブリック讃歌 歴史編 目次

  1. はじめに
  2. 西方へ拡大するアメリカ領土
  3. ゴールドラッシュの影響
  4. 秘密組織 「地下鉄道」とは?
  5. アンクルトムの小屋の影響
  6. カリフォルニアの自由州編入
  7. カンサス・ネブラスカ法成立
  8. カンサスへの移住競争
  9. カンサスへ移住するジョンブラウン
  10. 南部支持派のブキャナン大統領
  11. ついに立ち上がるジョンブラウン
  12. 燃え上がるハーパース・フェリー
  13. アメリカ分裂~リンカーンの苦悩
  14. 彼の精神は行進する
  15. 達成できなかった真の解放
  16. 参考文献

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