オーストリア国歌

オーストリア共和国/Republic of Austria

オーストリア国歌の歴史は、古くは18世紀後半にさかのぼる。当時のヨーロッパでは、1789年にフランス革命が勃発し、プロイセン軍との革命戦争に対してマルセイユの義勇兵がパリに集結。彼らが口ずさんだ賛歌は『ラ・マルセイエーズ』となった。現在のフランス国歌がこの時すでに誕生していた。

<写真:オーストリアの世界遺産シェーンブルン宮殿>

イギリスでもその頃既に現在の国歌『God Save the Queen (King)』が国内で広く定着しており、まだ国歌のなかったオーストリア帝国では、他国のような愛国的賛歌の必要性が高まっていた。

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歌詞の意味・和訳

1.
Land der Berge, Land am Strome,
Land der Äcker, Land der Dome,
Land der Hämmer zukunftsreich!
Heimat großer Töchter und Söhne,
Volk begnadet für das Schöne,
Vielgerühmtes Österreich,
Vielgerühmtes Österreich!

山々に川の流れ 平野に大聖堂
槌で形作られし豊かなる未来
偉大な娘たち、息子たちの故郷
美に恵まれし人々よ
高らかに讃えん オーストリア!
高らかに讃えん オーストリア!

2.
Heiß umfehdet, wild umstritten,
Liegst dem Erdteil du inmitten
Einem starken Herzen gleich.
Hast seit frühen Ahnentagen
Hoher Sendung Last getragen,
Vielgeprüftes Österreich,
Vielgeprüftes Österreich.

強硬なる争い 猛烈なる闘い
大陸の中枢 強き心臓
祖先の時代から負いし崇高なる使命
試練を受けしオーストリア
試練を受けしオーストリア

3.
Mutig in die neuen Zeiten,
Frei und gläubig sieh uns schreiten,
Arbeitsfroh und hoffnungsreich.
Einig laß in Bruderchören,
Vaterland, dir Treue schwören.
Vielgeliebtes Österreich,
Vielgeliebtes Österreich.

新たなる時代へと闊歩する我等
勇敢なり 自由なり 誠実なり
勤勉で希望にあふれ
隣人との団結の唱和の中で
汝に忠誠を誓わん
最愛なるオーストリア
最愛なるオーストリア

ハイドン作曲によりオーストリア国歌誕生

そこで名乗りを上げたのは、古典派を代表するオーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn/1732-1809)

ハイドン自身も実際にイギリスで『God Save the Queen (King)』を聴いた経験があり、自らオーストリア政府に働きかけて国歌作曲に取り掛かったという。

クロアチア民謡をベースとしたハイドン作曲のメロディに、詩人ハシュカの歌詞がつけられ、1797年2月12日、待望の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え Gott erhalte Franz den Kaiser』として、神聖ローマ皇帝フランツ2世の誕生日に献呈された。

同曲は、1804年に成立したオーストリア帝国で正式な国歌となり、引き続いてオーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)でも国歌として継承されていった。現在のドイツ国歌でも同じメロディが使用されている

上挿絵:オーストリア=ハンガリー帝国の国章

なお、ハイドンは後に『神よ、皇帝フランツを守り給え』のメロディを、自身の作品である弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」第2楽章に変奏曲として流用している。

また、同曲のメロディは、イギリスでは讃美歌『栄えに満ちたる Glorious things of thee are spoken(Austria)』となって歌われている。ちなみに作詞は、『アメイジング・グレイス』で知られるジョン・ニュートン

20世紀のオーストリア史と国歌

1914年サラエボ事件 ~帝国崩壊~

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、当時オーストリア領だったボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ(サラエヴォ)を視察中にセルビア人青年によって暗殺されるという事件が起きた。いわゆる「サラエボ事件」である。

サラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発。すると民族主義の高まり(民族自決)と戦争時の混乱に乗じてチェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランドなどが次々と完全な分離独立を宣言。皇帝カール1世は国外に脱出し、ついに1918年、600年以上君臨したオーストリア=ハンガリー帝国は音を立てて崩壊した。

上図:1910年当時のオーストリア=ハンガリー帝国の民族分布。朱色がオーストリア系、薄緑がハンガリー系、水色がチェコ系、茶色がスロヴァキア系、紫がポーランド系、北東のオレンジがウクライナ系、南部の黄土色がクロアチア・セルビア系

禁止されたドイツとの合併

1918年、オーストリアで第一共和国が建国される。当時のオーストリアは分離独立により国力が大きく衰えており、また非ドイツ系民族が独立という形で分離されたことで、ドイツ系オーストリアによるドイツとの合併が国民の総意として推し進められていった。

当初の国名は「ドイツ=オーストリア共和国(Republik Deutschösterreich)」とされ、1918年11月のオーストリア臨時国民議会では、ドイツ共和国との合併を全会一致で決議している。また、ドイツのワイマール憲法(ヴァイマル憲法)にもオーストリアと併合をほのめかす条文が存在した。

ところが、第一次世界大戦の戦後処理として連合国側とオーストリアとの間で1919年9月10日に締結された講和条約「サン=ジェルマン条約」では、敗戦国ドイツが合併で国土を拡大されることにフランスやイタリアが強く異議を唱えたことから、ドイツとオーストリアの合併は明文で禁止されてしまう(期限は20年間)。国名からも「ドイツ」の文字が外され「オーストリア共和国」に変更された。

写真:フランスのサン=ジェルマン=アン=レー城(出典:Wikipedia)

当時のオーストリア国歌について

建国まもない頃のオーストリア第一共和国では、ドイツとの合併を念頭に置いた『ドイツ・オーストリア、汝、壮麗の国よ (Deutschösterreich, du, herrliches Land』が国歌として用意されていた。

しかしサン=ジェルマン講和条約によりドイツとの合併禁止が明文化されると、1920年以降は『終わり無き祝福あらんことを Sei gesegnet ohne Ende(Kernstock-Hymne)』がオーストリア第一共和国として置き換えられ、1938年3月13日のアンシュルス(ドイツによるオーストリア合邦)まで国歌として歌われた。メロディは現在のドイツ国歌と同じ。

第二次大戦後のオーストリア国歌

戦後1955年5月15日に完全独立を果たし、今日まで続くオーストリア共和国の国歌は、『Land der Berge, Land am Strome 山岳の国、大河の国』。作詞はプレーラドヴィック(Paula von Preradović)。

メロディについては当初、モーツァルト最晩年の作品『Lasst uns mit geschlungnen Händen われら手に手をとり』(K.623a)とされてきたが、近年の研究では真の作曲者としてヨハン・ホルツァー(Johann Holzer/1753–1818)の名前が挙げられている。

なお、2012年1月から歌詞の一部が変更され、男女同権の社会的風潮を国歌にも反映させるべく、1番の歌詞「Heimat bist du großer Söhne 偉大なる息子らの故郷」が「Heimat großer Töchter und Söhne 偉大な娘たち、息子たちの故郷」に修正されている。

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