野崎小唄 歌詞の意味
野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり
「野崎参りは 屋形船でまいろ」が歌い出しの『野崎小唄』(のざきこうた)は、作詞:今中楓溪、作曲:大村能章により1935年(昭和10年)に発表された昭和初期の歌謡曲。
写真:野崎観音(慈眼寺/大阪府大東市)出典:Wikipedia
大阪府大東市野崎、生駒山の中腹に位置する慈眼寺(じげんじ)は、「野崎観音」として古くから親しまれる。
江戸時代には、大阪城近くの八軒家浜(はちけんやはま)船着場から屋形船で寝屋川をさかのぼり野崎観音に参詣する「野崎参り」が流行した。
写真:寝屋川と大阪ビジネスパーク(出典:Wikipedia)
『野崎小唄』の歌詞には、「野崎参り」にまつわる江戸時代のユニークな風習や、かつての野崎村に関連する人形浄瑠璃・歌舞伎の人気演目などが織り込まれている。歌詞の意味については後述する。
【YouTube】野崎小唄 東海林太郎(オリジナル)
【YouTube】 野崎小唄 細川たかし 昭和歌謡
歌詞『野崎小唄』
一
野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人
二
野崎参りは 屋形船でまいろ
お染久松 涙の恋に
残る紅梅 久作(きゅうさく)屋敷
今も降らすか 春の雨
三
野崎参りは 屋形船でまいろ
音にきこえた 観音ござる
お願かけよか うたりょか滝に
滝は白絹 法(のり)の水
呼んで見ようか 土手の人
江戸時代の野崎参りでは、寝屋川を行く屋形船の乗客と、川沿いの土手を歩いていく人々との間で、互いを冷やかしたり罵ったりする「ふり売り喧嘩」という口喧嘩の風習があったという。
これはあくまでも口喧嘩だけで、決して石を投げたり手を上げたりしてはいけないという暗黙のルールもあったようだ。
『野崎小唄』一番の歌詞で「呼んで見ようか 土手の人」とあるのは、この「ふり売り喧嘩」の風習を踏まえたもの。上方落語「野崎詣り」でも大きく取り上げられている。
お染久松 涙の恋に
『野崎小唄』二番の歌詞にある「お染久松 涙の恋に」とは、江戸時代に心中事件を起こしたとされるお染(そめ)と久松(ひさまつ)のこと。
江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目として様々な作品に登場するが、『野崎小唄』と関連が深いのは、安永9年(1780年}に初演された近松半二『新版歌祭文』(しんぱんうたざいもん)における「野崎村の段」。
野崎村の段 あらすじ
舞台は野崎観音(慈眼寺)のある野崎村。久松の許婚(いいなずけ)・お光は、久松との結婚を心待ちにしていたが、久松は奉公先の娘・お染と恋仲になり子供もできてしまう。
久松とお光の婚礼を急ぐ父・久作(きゅうさく)。場面は久作の屋敷。そこへお染が現れ、一緒に慣れないのなら死を選ぶと久松に迫る。二人はもう死ぬしかないと嘆き会う。
二人の心中の覚悟を見たお光は、自分が諦めれば二人が助かるのならと、剃髪して尼となり身を引いた。のどかな春の景色の中、去っていくお染と久松。
久作の屋敷に残されたお光は、今まで抑えていた感情が溢れ出て、久作にすがりついて泣き崩れるのだった。
野崎観音(慈眼寺)の境内には、現在もお染・久松の塚が残されている。
滝は白絹 法(のり)の水
『野崎小唄』三番の歌詞で滝が登場するが、特にどこの滝なのかは固有名詞で特定されているわけではない。
野崎観音から四条畷方面への権現川ハイキングコースの途中に「権現滝」があるが、関連性があるとすればこの権現滝になるだろうか。
ちなみに「法(のり)」とは、ここでは「仏法・仏教」を表している。
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