伊達政宗と秀宗 仙台藩・宇和島藩

民謡関連の日本史/宮城県・愛知県民謡にまつわる歴史

伊達政宗との関連で有名な宮城県民謡『さんさ時雨(しぐれ)』と、愛媛県宇和島民謡『宇和島さんさ』の二つの民謡は、曲名も似ており、歌詞にも類似点が見受けられるが、これらは決して偶然ではない。

青葉城址 伊達政宗騎馬像(出典:仙台ブログ)

このページでは、仙台藩初代藩主・伊達政宗と、その長男で宇和島藩初代藩主・伊達秀宗の二人について、『さんさ時雨(しぐれ)』と『宇和島さんさ』の関係性を意識しながら、歴史的観点から簡単にまとめることとしたい。

親子の不和 秀吉の猶子で側室の子・秀宗

仙台藩・宇和島藩の初代藩主をそれぞれ務めた伊達政宗・秀宗親子は、長きに渡って不和の関係にあったという。

大雑把にいって、この親子の不和の原因ともいえる重要な点は二つ、一つは秀宗が豊臣秀吉の猶子(養子に近い親戚関係)であったこと、もう一つは秀宗が側室の子であったということが挙げられる。

関ヶ原の戦い勃発 正室が弟を出産

側室の子(庶長子)ながらも、長男として伊達家の家督相続者と目されていた秀宗。豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、秀吉から一字授かった秀宗だったが、秀吉の死後に関ヶ原の戦いが勃発。一転して徳川の世が訪れた。

さらに1602年9月、秀宗が11歳の時に、伊達政宗の正室愛姫が弟(伊達忠宗)を出産。後に江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠から一字を授かった弟の忠宗が伊達家の家督相続者となった。

宇和島市中心部(出典:宇和島発 めぐる会日記)

大坂の陣で宇和島を拝領 秀宗は初代藩主に

1614年の大坂冬の陣に参戦した伊達家は、その功労に対して伊予宇和島10万石を拝領した。家督相続から外れてしまった長男秀宗のために、父伊達政宗は別家を興すことを考え、宇和島伊達家・初代宇和島藩主として秀宗と家臣らを宇和島へ送り出した。

家督を継げなかったことや、幼い頃に長い人質生活を強いられていたことなど、秀宗は父・政宗に対して憎しみを抱いていたのだろうか。親子の不信は募り、秀宗は父から勘当されていた時期もあったという。

政宗の晩年は和解 両藩の文化交流も

不和の時期を乗り越え、政宗の晩年には、何とか和解を果たした政宗秀宗親子。和歌を交歓したり、茶道具が政宗から秀宗に贈られるなど、仙台藩・宇和島藩で文化的な交流がなされた。

この時期に、宮城県民謡『さんさ時雨(しぐれ)』に関連する交流もなされ、そのルーツは宇和島民謡『宇和島さんさ』にあるとの説も唱えられているようだが、真相は定かではない。

弟との確執?宇和島武士の意地

父・政宗と和解を果たしたものの、宇和島初代藩主となった秀宗には決して譲れないものがあった。秀宗は、宇和島藩が仙台藩の支藩扱いされることを嫌った。3代将軍徳川家光との御成の間で対面の際、秀宗は、弟の仙台藩主・忠宗より上座に着座したという逸話が残っている。

その後の両藩の関係については、政宗・秀宗のような遺恨があったのかに関しては定かではないが、少なくとも宇和島藩にとっては、仙台藩との関係は非常にデリケートな問題であり続けたことは想像に難くない。

両藩の文化的交流の際にも、些細な意地の張り合いや煽り合いはあったのかもしれない。こうした文脈の中で、宇和島民謡『宇和島さんさ』が生まれたと考えられるのも非常に自然な流れであると思われる。

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