東京音楽学校と瀧 廉太郎
明治時代の日本で西洋音楽輸入の拠点となった官立音楽学校
東京・上野公園には、かつて瀧 廉太郎が通っていた東京音楽学校の奏楽堂(音楽ホール)が移築され、国の重要文化財として今日まで保存されている(下写真)。
『荒城の月』、『花(春のうららの隅田川)』、『箱根八里』などの歌曲は、瀧 廉太郎が東京音楽学校の研究科へ進んだ後の、ドイツ留学直前までのわずか一年間に集中して誕生している。
いうまでもなく、瀧 廉太郎の歌曲誕生と東京音楽学校は密接不可分の関係にある。果たして、瀧 廉太郎は東京音楽学校でどのように西洋音楽を学んでいったのだろうか?簡単にまとめてみたい。
少年期の瀧 廉太郎と西洋音楽
瀧 廉太郎には二人の姉がおり、当時としては大変貴重なヴァイオリンやアコーディオンを習っていた。小学生の瀧は、姉のヴァイオリンを自己流ながら巧みに操り、同級生らを驚かせたという。
また、彼の通った小学校にはオルガンがあり、当時それを弾けた数少ない教師からオルガンを習うことができた。
瀧 廉太郎はそのオルガンを弾くことを許された唯一の生徒として特別にその才能を認められていたという。これが後のピアニスト瀧 廉太郎のルーツとなっていく。
東京音楽学校 予科から本科へ
小学校高等科卒業後、音楽家を志して上京した瀧 廉太郎は1894年9月、15歳で東京音楽学校の予科に合格し、本格的な音楽教育を受けることとなった。
翌年には予科を修了し、音楽の専門家養成を目的とした3年間の本科(専修部)へ進学。ピアノと和声学で優れた成績を残した。
当時の東京音楽学校では、『夏は来ぬ』を作曲した小山作之助が教鞭を執っており、瀧は小山の指導を受けながら、『日本男児』、『散歩』などの独唱歌曲をいくつか作曲している。
ドイツのケーベル先生と瀧 廉太郎
瀧 廉太郎が東京音楽学校の予科に通い始めた頃、同校では明治政府のお雇い外国人ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber/1848-1923)がピアノの指導に当たっていた。
ドイツ系ロシア人のケーベルは、かつてモスクワ音楽院でチャイコフスキーとルービンシュタインから教えを受けたピアニスト。ドイツで哲学も修めており、東京帝国大学で夏目漱石らから「ケーベル先生」と慕われた。
瀧 廉太郎とケーベルとの本格的な交流は、瀧が東京音楽学校の研究科へ進んでからと思われるが、瀧のピアノ技術と西洋音楽の知識に大きな影響を与えたと思われる。
ヨーロッパ帰りの幸田延教授
瀧 廉太郎が東京音楽学校の本科へ進学した頃、日本人初のヨーロッパ音楽留学生である女性ヴァイオリニストの幸田 延(こうだ のぶ/1870-1946)が帰国し、1895年から東京音楽学校教授に就任した。
幸田 延は小説家・幸田露伴の妹であり、後に日本人初のクラシック音楽作品となるヴァイオリンソナタを2曲作曲している。
瀧 廉太郎は、本科生時代にヨーロッパ帰りの幸田 延やケーベル先生から最新の西洋音楽の教えを受けることができ、後の名曲誕生に不可欠な西洋音楽的基礎もこの時期に醸成されていったものと推測される。
留学を延期した運命の一年
1898年7月、瀧 廉太郎は東京音楽学校本科を首席で卒業。同年9月に研究科へと進学した。西洋音楽の研究をさらに深めるとともに、演奏会でベートーヴェンなどのピアノ曲を何度か披露するなど、ピアニストとしての実力と評価を高めていった。
周囲の期待を一身に背負った瀧 廉太郎は1900年6月、文部省から3年間のドイツ留学を命じられる。行先は、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院。ケーベルが推薦状を書いたという。
しかし、瀧 廉太郎はこれにすぐには応じず、出発延期願を提出した。実際に日本を発ったのは1901年4月。この約一年間の間に、『荒城の月』、『花(春のうららの隅田川)』、『箱根八里』など、瀧 廉太郎の代表曲のすべてが作曲されている。
瀧 廉太郎は留学中に肺結核を患い、1903年6月29日に23歳の若さで亡くなっている。もしあの運命の一年がなかったら、これらの名曲は誕生していなかったかもしれない。
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