ケーベル先生と瀧 廉太郎
チャイコフスキーから教えを受けたピアニストであり哲学者
明治時代に「ケーベル先生」「ケーベル博士」として慕われたラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber/1848-1923)について、本稿では音楽家としての側面と瀧 廉太郎(たき れんたろう)への影響に焦点を当ててまとめてみたい。
ケーベルはドイツ人の父とロシア人の母を持つドイツ系ロシア人。1867年にモスクワ音楽院へ入学し、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテイン(ルービンシュタイン)から音楽の教えを受けた。
卒業後は演奏家の道には進まず、哲学を志したケーベルは、ドイツ・テューリンゲン州のイェーナ大学で、哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た。
その後はかつての音楽経験を活かし、音楽の研究家としてベルリン大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学などドイツ各地の大学で音楽史や音楽美学の講義を行った。
45歳で日本へ渡ったケーベル
ケーベルに転機が訪れたのは40代半ば頃。友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めで、日本の大学で教鞭をとることになった。
1893年(明治26年)6月、ケーベルは45歳で日本へ渡り、東京帝国大学に在職してドイツ哲学や西洋古典学、美術史などを教えた。
東京音楽学校ではピアノを教えることとなったケーベル。彼が直接学生達を指導するのではなく、いわゆる「先生の先生」として同校の教授らを指導していたようだ。
瀧 廉太郎との出会い
ケーベルが日本へ来た頃、瀧 廉太郎は生徒として東京音楽学校に通っていた。生徒時代の瀧 廉太郎とケーベルとの間にどの程度交流があったかは不明だが、瀧にとって西洋音楽に関する貴重な情報源の一つであったことは間違いないだろう。
1898年、東京音楽学校の本科を首席で卒業した瀧 廉太郎は、同年9月に研究科へ進み、19歳という若さながら、生徒らに音楽の指導を行う立場になっていった。
瀧 廉太郎がケーベルと本格的に接点を持つのは、彼が研究科へ進んでからではないかと思われる。
1898年9月に研究科へ進んだ後、1901年4月にドイツ留学へ出発する直前までの約2年間、瀧 廉太郎はケーベルからピアノ演奏や作曲の面で大きな影響を受けていったことだろう。
なお、『花(春のうららの墨田川)』、『荒城の月』、『お正月』などの代表曲は、ドイツ留学直前のわずか10か月の間に誕生している。
それらの楽曲には、メンデルスゾーンなどのドイツ系作曲家らの影響が垣間見え、ケーベルからの影響はかなり大きいものがあったのではないかと推測される。
その後のケーベル
1901年4月、ケーベルからの推薦状に基づき、瀧 廉太郎はドイツのライプツィヒ音楽院(現:メンデルスゾーン音楽演劇大学)へ留学する。これが、瀧 廉太郎とケーベルの事実上の別れとなる。
ケーベルは、1914年まで21年間、東京帝国大学に在職し哲学を教えた。教え子には、夏目漱石や岩波茂雄(岩波書店創業者)らがおり、漱石は後に随筆「ケーベル先生」を著している。
1904年の日露戦争開戦時にもケーベルは日本にとどまった。1914年に退職した際、ドイツに戻る予定だったが、横浜で船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発。
帰国の機会を逸したケーベルは、1923年に死去するまで、横浜のロシア領事館の一室に暮らした。満75歳没。墓地は雑司ヶ谷霊園にある。
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