シェリーに口づけ 歌詞の意味・和訳
ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff/1944-)
『シェリーに口づけ』(Tout tout pour ma chérie)は、フランスの男性歌手ミッシェル・ポルナレフが1969年にリリースしたフレンチポップス。
日本では空耳ソング『トゥートゥートゥマシェリ』として、2000年代にFlashアニメーションがニコニコ動画などの動画投稿サイトにアップされ人気を博した。
ミッシェル・ポルナレフ ベスト盤
曲名のフランス語「Tout tout pour ma chérie」は、日本語訳すると「すべてを僕の愛しい人に」といった意味合いになるが、日本語のタイトルでは『シェリーに口づけ』とフランス語の意味とは異なる曲名がつけられている。
これは、ウィキペディアの解説によれば、当時エピック・ソニーの担当ディレクターだった高久光雄氏が「Tout, Tout(トゥートゥー)がキスの音に聞こえるから」という理由で独自の邦題をつけたそうだ。
「シェリー (chérie)」については、フランス語では「愛しい人」を意味する単語で、英語では「ダーリン (darling)」にあたる言葉。これは人名と勘違いしているわけではなく、そのまま「愛しい人に口づけ」の意味合いで解釈できるだろう。
【YouTube】シェリーに口づけ Tout tout pour ma chérie
歌詞の意味・和訳(意訳)
『Tout, tout pour ma chérie』
作詞・作曲 ミッシェル・ポルナレフ
Tout, tout pour ma chérie, ma chérie (x4)
すべてを愛しい君に(4回繰り返し)
Toi, viens avec moi
Et pends-toi à mon bras
Je me sens si seul
Sans ta voix, sans ton corps
Quand tu n'es pas là
Oh oui, viens !
Viens près de moi
僕と一緒においで
腕につかまって
寂しくなるのさ
君の声が聞こえないと
君の姿が見えないと
君がそこにいないと
だからおいで!
僕のそばに
Je ne connais rien de toi
Ni ton nom, ni l'âge que tu as
Et pourtant tu ne regretteras pas
Car je donne
Tout, tout pour ma chérie, ma chérie (x4)
君のことは何も知らない
名前も 年齢も
だけど後悔はさせないよ
僕の全てを捧げよう
愛しい君に(4回繰り返し)
Je suis sur un piédestal de cristal
Et j'ai peur un jour de tomber
Sans avoir personne à mes côtés
Mais si tu viens
Viens avec moi
Je sais qu'il y aura
Quelqu'un qui marchera près de moi
Qui mettra fin à mon désarroi
僕は今 大理石の台座の上
いつか落ちるかもしれない
そばに誰もいないまま
でも君が来てくれれば
僕のそばで一緒に歩いて
僕の不安を終わらせてくれる
Tout, tout pour ma chérie, ma chérie (x4)
すべてを愛しい君に(4回繰り返し)
Toi, viens avec moi
J'ai trop besoin de toi
J'ai tant d'amour à te donner
Laisse-moi, laisse-moi te serrer contre moiOui, viens avec moi
Et ne me quitte pas
Je t'attends depuis tant d'années
Mon amour, tant d'années à pleurer
僕と一緒においで
ほんとに君が必要なんだ
君への愛があふれてる
君を抱きしめたい
そうさ おいでよ
そばを離れないで
何年も君を待ってた
涙を流しながら何年も
Tout, tout pour ma chérie, ma chérie (x4)
すべてを愛しい君に(4回繰り返し)
ミッシェル・ポルナレフの生い立ちとは?
フランス人の感性とアメリカンロックが見事に融合した数々の個性的なサウンドは、今日までその大きなサングラスと奇抜な衣装と共に伝説的な扱いを受けているが、これまでの道のりは決して平坦なものではなかったようだ。
彼の母親はダンサーで、父親はエディット・ピアフ(Édith Piaf.)と共に活動していた音楽家だった。5才の時からピアノを習い始め、パリ音楽院で優秀なピアノの成績を残していた傍ら、アメリカンロックへの憧れからギターを弾くようになっていた。
ストリート・ミュージシャン時代
音楽院を卒業し、兵役を終えたミッシェルは、しばらく保険の外交員等を勤めた後、家を出て、パリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる大聖堂サクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur) の階段でストリート・ミュージシャンとしてギターを弾き始め、ロックでのデビューを目指して各地で独自の音楽活動を続けていった。
21歳の1965年、彼はパリである音楽賞を獲得すると、それをきっかけにレコード会社から声がかかり、翌年にリリースされた彼の最初のシングル「ノンノン人形(La Poupée qui Fait Non)」は、その新しい音楽スタイルと彼自身の奇抜な格好が幸いしてヨーロッパ中で大ヒットとなった。
発禁処分から人気に
彼の奇抜な感性とスタイルは時にわざわいした。シングル「君との愛のすべて(L'Amour avec Toi)」では、当時としては露骨な性表現と青少年の教育に相応しくない衣装が原因で、夜10時以前の放送が禁止された他、一部で発売禁止の扱いを受けた。
しかしそれが逆に当時の若者達の心をつかみ、彼の人気を更に高めていくこととなった。1967・1968年にリリースしたシングルは次々に大ヒットとなり、ついに1969年、日本で今日まで長い間ヒットを続けるシングル「シェリーに口づけ」が発売されることとなった。