オーストラリア開拓の歴史
オーストラリア連邦/Commonwealth of Australia
独自の憲法を持ち、イギリス女王(国王)を君主と仰ぐ立憲君主制・連邦制国家であるオーストラリア開拓の近代史は、古くは17世紀初頭にさかのぼる。
大航海時代も終盤を迎えた1606年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)総督のウィレム・ヤンツ(Willem Jansz/1570–1630)が最初にオーストラリア大陸を発見。だが上陸地点は熱帯の北部地域で植民地には向かないと考えられ、オランダ人による入植は行われなかった。
写真:復元されたエンデバー号(HMB Endeavour)
1642年にはオランダ人探検家アベル・タスマン(Abel Tasman)がオランダ東インド会社の依頼でオーストラリア周辺の島々を航海し、タスマニア島、ニュージーランド、フィジー等を発見した。1644年にはオーストラリア北西部沿岸を航海したが、入植に有益な情報を得ることはできなかった。
イギリスのエンデバー号が上陸
オーストラリアへの本格的な上陸が始まるのは18世紀に入ってからのこと。イギリスの海軍士官で探検家のジェームズ・クック(James Cook/1728-1779)は、小型帆船エンデバー号(エンデヴァー号/HMB Endeavour)を指揮し、現在のシドニー南部に位置するボタニー湾(Botany Bay)に上陸、後にオーストラリア東岸の英国領有を宣言した。
ちなみに、日本人宇宙飛行士の毛利衛、若田光一、土井隆雄らが搭乗したスペースシャトル「エンデバー号(エンデヴァー号)」の名前は、このジェームズ・クックが乗船した帆船の名前に由来している。
流刑地として入植開始
オーストラリアへの入植が進むのは、アメリカがイギリスから独立を果たした18世紀後半の頃。当時のイギリスは北部アメリカ大陸の植民地を流刑地として利用していた。
やがてアメリカ入植者とイギリス本国の関係が悪化し、ついに1776年にアメリカ独立宣言が発せられると、以後の流刑地はオーストラリアが活用されることとなった。
1788年に移民を開始したイギリスの移民団は、約1,000人中7割以上が流刑を科された囚人であり、その中には軽微な犯罪者も含まれていたという。
入植者たちは先住民のアボリジニから土地を取り上げ、農地を広げ、土地を開拓し、1828年にはオーストラリア全土をイギリスの植民地化していった。
ドミニオン(自治領)から事実上の独立へ
1901年1月1日にオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia/コモンウェルス・オブ・オーストラリア)が成立し、イギリスからの事実上の独立を果たした(内政自治権の獲得)。
1907年に開かれたイギリス帝国会議では、オーストラリアとカナダの2植民地について、自治権を有する「Dominion ドミニオン(自治領)」であることが確認された(同年にニュージーランドも自治領化)。
上挿絵:イギリス連邦(コモンウェルス the Commonwealth of Nations)
英国議会が1931年12月に発表した「ウェストミンスター憲章(Statute of Westminster 1931)」では、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドなどがイギリスと対等の独立国家として認められた。
イギリス国王(女王)への忠誠義務はあったが、イギリス政府の干渉を受けることなく、外交・内政・軍事に関する権限を行使できる地位が承認された。
第二次世界大戦後はイギリス国王(女王)への忠誠義務もなくなったが、現在もオーストラリアはイギリス国王(女王)を国家元首とする立憲君主制をとっている。
ただ、インドのように共和制へ移行し、名実共にイギリスから独立すべきと主張する共和派の活動も活発で、君主制の是非を問う国民投票も何度か実施されている。
[ 右写真:イギリス連邦王国の女王エリザベス女王 ]
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