イタリア統一の歴史

英雄ガリバルディ率いる赤シャツ隊の活躍

イタリア統一に向けた動きは、北西部のサルディーニャ王国主導の下、19世紀半ばから後半にかけて本格化するが、その機運は19世紀前半頃から徐々に形成されていった。

【上図:1843年時点のイタリア】 青:サルデーニャ王国、薄緑:ロンバルド=ヴェネト王国、紫:教皇領、南東部の薄いオレンジが両シチリア王国

1820年代には、スペイン立憲革命をきっかけとしてナポリやシチリアで革命が発生。サルデーニャ王国でも武装蜂起が発生したが、いずれも政府軍やオーストリア軍によって制圧されてしまった。

イタリアの三色旗トリコローレ

この頃からすでに緑・白・赤のイタリア三色旗(Tricolore italiano)が用いられていたとされ、緑は「国土」、白は「正義・平和」、赤は「愛国者の血・熱血」を表す三色旗トリコローレは、19世紀イタリア統一運動のシンボルとなっていった。

(右挿絵:1848年以降のサルディーニャ王国の国旗)

1830年代になると、ジュゼッペ・マッツィーニのグループが民主派の中心勢力として躍進。初期にはジェノヴァとサヴォワ蜂起などが失敗に終わっているが、以後イタリア統一の大きな原動力となっていく。このジェノヴァ蜂起では、後に英雄的活躍を見せるジュゼッペ・ガリバルディが参加している。

イタリア独立戦争とラデツキー行進曲

1848年、フランスで2月革命が起き、国王ルイ・フィリップがパリから逃亡して共和国が成立すると、革命の波はヨーロッパ諸国に波及。イタリアでも各地で暴動や反乱がおこった。

サルデーニャ王国はオーストリアに宣戦布告し、イタリア独立戦争が勃発。序盤は各地で勝利をおさめたが、『ラデツキー行進曲』のモチーフとなったオーストリアの名将ラデツキー将軍(右挿絵)の前に大敗を喫し、ローマを防衛したガリバルディやマッツィーニらも亡命。第一次イタリア独立戦争は失敗に終わった。

ちなみにヨハン・シュトラウス『ラデツキー行進曲』は、これら北イタリアの独立運動を鎮圧したラデツキー将軍を讃えるため1848年に作曲された行進曲である。ラデツキー将軍は、1849年から1857年までイタリア北東部のロンバルド=ヴェネト王国の総督を務めている。

【関連ページ】

ヨハン・シュトラウス『ラデツキー行進曲』 解説と試聴

フランス援軍の見返りはニース割譲

オーストリアが支配していたロンバルディア(ロンバルド=ヴェネト王国)を奪回するべく、1858年、サルデーニャ王国はフランスと密約を結び、連合軍を結成してオーストリアとの戦いに臨んだ。

この密約は「プロンビエールの密約」として知られ、ナポレオン3世(右挿絵)による軍事援助の見返りとして、サヴォワ、ニース両州の割譲が秘密裏に約束されていた。

ニースはガリバルディの出身地。亡命先のブラジルから帰国したガリバルディは、故郷がフランスに割譲されたことに激怒し、以後サルデーニャ王国側との対立を深めていくことになる。

大きく進展する統一運動

イタリア統一運動(リソルジメント)が大きく進展したのは1860年のこと。当時のイタリアには、北西部のサルデーニャ王国、ヴェネツィアを中心とする北東部のヴェネト共和国(オーストリアが統治)、中部の教皇国家、南部の両シチリア王国の4か国が存在した。

それまで統一運動で主導的な役割を果たしてきたサルデーニャ王国は、これら残りの3国については、その経済的価値の少なさから消極的な立場を取っていたが、事態は王国の意図とは異なる方向へ展開していくことになる。

傭兵がいなくなった両シチリア王国

南部の両シチリア王国では、それまでスイス人の傭兵部隊が同国の主要な防衛力を担っていたが、スイス政府が自国外の傭兵を法律で禁止したため、スイス人傭兵たちが突然本国へ引き揚げてしまう事態となった。

傭兵撤退で守りの要がなくなり、加えて専制君主による圧政に各地で反乱も起こり始めるなど、両シチリア王国を征服するには絶好の機会が到来していた。

だが、サルデーニャ王国による統一運動の主導権は穏健派に奪われており、サルデーニャ王国軍による制圧は期待できない状況にあった。

そこで立ち上がったのが、後に「イタリアの英雄」と讃えられるジュゼッペ・ガリバルディである。

【後半ページ】ガリバルディ 赤シャツ隊(千人隊)結成

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イタリア国歌 マメーリの賛歌 Inno di Mameli
歌詞が作詞されたのはイタリア統一運動の機運が高まっていた19世紀前半頃