ガンジー暗殺 それでもあなたを許す

マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi/1869-1948)

1947年8月にパキスタンが分離独立した頃のインドは、ヒンズー教とイスラム教の対立をめぐる宗教的な暴動の嵐が全土に吹き荒れていた。

ガンジーは断食を繰り返すなどして、身を挺して非暴力を訴えていったが、ヒンズー教原理主義者からは、イスラム教徒(ムスリム)に対して甘すぎる姿勢が非難され、ついには敵対視されるまでになっていた。

上写真:第一次インド・パキスタン戦争で進軍するインド軍

1947年10月21日、カシミール地方の帰属をめぐってパキスタン(イスラム教徒)が軍事侵攻を開始。いわゆる「第一次印パ戦争」が勃発した。

だがガンジーはそれでもなお、パキスタンに対して譲歩する姿勢を続けたことから、ついにヒンズー教原理主義者らの怒りは最悪の形で爆発してしまった。

凶弾に倒れるガンジー

印パ戦争中の1948年1月30日、ニューデリーのビルラー邸で開かれた集会で、演台に向かっていたガンジーは、狂信的なヒンズー原理主義者によって3発の銃弾を撃ち込まれた。

銃弾を受け、薄れゆく意識の中で、ガンジーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」を意味するジェスチャーである。そしてガンジーは「おお、神よ」とつぶやくと、78年の人生の幕を閉じた。

ガンジーの死を弔う国葬が行われ、200万人以上の人々が8キロにも及ぶ葬儀の列を作った。遺灰はヤムナー川とガンジス川、そして南アフリカの海に撒かれたという。

生前、ガンジーは自らの非暴力主義について、こんな言葉を残している。

「私の信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、私はむしろ暴力をすすめるだろう。

インドが意気地なしで、辱めに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、私はインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。

しかし、私は非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄々しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しは全てに勝るとはいえ、罰を差し控え、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。」

関連ページ

ガンジー不服従運動 インド
イギリス東インド会社の侵略と裏切り。抵抗を呼びかけるガンジー。
塩の行進 ガンジー
イギリスによる塩の独占的製造・販売に立ち上がるガンジー
インド国歌『ジャナ・ガナ・マナ(インドの朝) Jana Gana Mana』
イギリス支配からの独立を果たしたインド共和国において、ガンジーの死後、1950年に公式採用された。
イギリス国歌『God Save the Queen(King)』
イギリスやコモンウェルス(連邦王国)諸国で賛歌として歌われている