取り壊しポルカで何が取り壊された?
オスマントルコによるウィーン包囲
ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauß II/1825-1899)
ウィーン市街の遠景 |
ヨハン・シュトラウス2世はユニークなタイトルのポルカを数多く作曲しているが、その中に「取り壊しポルカ」というこれまた変わった題名の曲がある。
タイトルを見る限り、何かが壊される様子が描写されている曲のようだが、一体何が取り壊されたというのだろうか?
この謎を解くためは、オーストリアの歴史を調べていく必要がある。ある程度歴史をさかのぼっていくと、どうやらオスマントルコ軍のウィーン包囲が関係してくるようだ。ウィーンは、過去二度に渡ってオスマン帝国軍に包囲される脅威を体験していたのだ。
第一次ウィーン包囲
1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝カール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ。予想以上に早く到来した冬の寒さにオスマン兵が不慣れだったことと、オーストリア軍の頑強な抵抗により、なんとかウィーンの陥落だけは免れた。
第ニ次ウィーン包囲
1683年、オスマン帝国は再びウィーンを脅かした。ハンガリーで発生した反乱に乗じたスレイマン率いるトルコ軍は、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。
トルコ兵の大群を迎え撃つのは、城壁内に残ったわずか数千の兵。しかし当時最新の築城法で築かれたウィーンの要塞は堅固で、攻城戦は長期化していた。そうこうしているうちにオーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着。ポーランド軍3万を率いるヤン3世が連合軍に総攻撃を命じると、包囲陣を寸断されたオスマン軍は散り散りになって潰走した。
ついにウィーンの城壁が取り壊される?!~取り壊しポルカ誕生~
オスマントルコ軍の攻撃からウィーンを守りきった城壁も、ついに引退の日がやって来た。1857年の冬、オーストリア帝国フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I/1830-1916)は、ウィーンを近代都市に生まれ変わらせるため、それまでウィーン市内を囲んでいた城壁の撤去を命じたのだ。更に、「リング(リンクシュトラーセ)」と呼ばれる美しい環状道路が整備され、その周囲には美しい歴史的建築様式が取り入れられた劇場や美術館、公演、教会などが次々と建てられ、今日の花の都ウィーンの基礎が誕生した。
この城壁解体工事というウィーンの歴史的一大イベントを目の前にして、1862年、ヨハン・シュトラウスは『Demolirer-Polka op. 269(デモリーラー・ポルカ)』を作曲した。「Demolirer(デモリーラー)」とは、解体工事の作業員の事。日本では一般的に『取り壊しポルカ』と呼ばれている。世間の出来事に敏感なヨハン・シュトラウスは、城壁解体の様子まで見事にポルカに仕立て上げてしまったのだ。
ちなみに、城壁の解体作業は非常に困難を極め、環状道路「リング」の開通式が行われたのは、フランツ・ヨーゼフ1世による解体の勅命が下ってから10年以上を経た1865年のことで、道路周辺の建物が一通り機能し始めたのはそこから更に20年以上を要している。
コーヒー・クロワッサンとオスマントルコとの意外な関係とは?
二度に渡るウィーン包囲の産物として、時にコーヒーとクロワッサンが取り上げられることがある。クロワッサンは、トルコ軍撃退を祝してトルコ国旗の三日月を象って作られたとされ、コーヒーは、敗走したオスマン軍の陣営に残されたコーヒー豆をウィーン市民が見つけたのが始まりという説が伝えられているのだ。どちらも信憑性は低いようだが、オスマン帝国軍が当時のウィーン市民に与えた影響の大きさを伺い知る興味深いエピソードだ。
また、オスマントルコ軍がウィーンに与えた影響は、当時の音楽界にも強く及んでいた。2度に渡るウィーン包囲の際、オスマントルコ軍は独自の軍楽隊メフテルを引き連れており、トルコ軍楽の異様な迫力に西欧諸国の人々は圧倒され、その反響からか18世紀頃には西欧でトルコ趣味が大流行したのだ。
このトルコ趣味の流行を前に、当時の音楽家達はこぞってトルコ風の楽曲を作曲していった。中でも、モーツァルト「ピアノソナタ第11番第3楽章(トルコ行進曲付き)」、そしてベートーヴェン「トルコ行進曲」の2曲が有名だ。