電話を発明したグラハム・ベル 伊沢修二も参加

アメリカに留学していた伊沢修二も電話実験に参加

電話の発明で知られる科学者アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell/1847-1922)は、1876年3月10日、次のような会話で、電話による世界初の通話実験を成功させた。

「Mr.Watoson, come here. I want to see you.」

「ワトソン君、ちょっと来てくれたまえ」

グラハム・ベルはこの通話の直前、研究室のテーブルに置かれた薬品のビンをうっかりこぼしてしまった。あわてたベル教授は、試作中だった電話機を使って別室にいた彼の助手ワトソンを呼びつけたのだった。

電話機で通話実験を行うグラハム・ベル

写真:電話機で通話実験を行うグラハム・ベル(出典:Wikipedia)

ちなみに、グラハム・ベルは、ヘレンケラーとサリバン先生を引き合わせた人物としても知られている。ベル教授は音声学の権威として、耳の不自由な人達への教育にも非常に熱心だった。

1876年のアメリカと日本

グラハム・ベルが通話実験に成功した1876年は、アメリカは西部開拓時代の真っ只中。1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、西部との物流・交流が活発になっていった時代。

発明家トーマス・エジソンが蓄音機を開発していた頃で、翌年の1877年に初めて蓄音機により声の録音に成功している。

有名な楽曲『大きな古時計(Grandfather's Clock)』が出版されたのも1876年。

日本では1876年は明治9年。明治維新後の廃刀令により、武士の刀が廃止された年。これに反発した各地の士族が反乱を起こし、翌年には西郷隆盛を盟主にした西南戦争が勃発した。

1876年(明治9年)7月にクラーク博士が札幌農学校教頭に就任。翌年の離任時に、有名な「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉を残したとされる。

伊沢修二のアメリカ留学

近代日本の音楽教育の祖と称される伊沢修二(1851~1917)は、1875年から1878年までアメリカに留学していた。

グラハム・ベルのもとで視話法を、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校のメーソン(Luther Whiting Mason/1828-1896)から音楽理論を学んだ。

グラハム・ベルの通話実験成功を受け、伊沢修二は1877年1月にグラハム・ベルの実験室を訪問。ハーバード大学に留学していた小村寿太郎、金子賢太郎等とともに、電話実験に参加させてもらえることになった。

伊沢らは、グラハム・ベルの電話を通して日本語で通話を行った。これにより、電話機で使われた最初の言語は英語、次は伊沢らによる日本語という歴史的な記録を残している。

ちなみに、伊沢修二は1878年に帰国後、東京師範学校長や音楽取調掛を歴任し、日本では未開拓だった音楽教育の分野を精力的に開拓していった。

後に、留学時代の教官であったメーソンは来日しており、「蛍の光」、「アニーローリー」、「仰げば尊し」など、日本における「世界の民謡・童謡」の導入に非常に大きな役割を果たしている。

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