ゴールドラッシュで「おおスザンナ」が大流行!
19世紀アメリカ民謡の父 フォスター特集
1848年の初め頃から始まったゴールドラッシュでは、カリフォルニアの金鉱へ向けて、一攫千金を夢見てたくさんの幌馬車隊が進んでいった。
金鉱までの長旅の間、フォスター作曲の「おおスザンナ」が多くの人々によって愛唱された。ただ、曲自体はまたたく間にアメリカ中の人々に知られていったが、作曲者としてのフォスターの名前はあまり広まらなかったという。
1849年(23歳) 職業としての音楽活動を決意
フォスター名歌のすべて |
ゴールドラッシュ直前の1846-1848年頃は、フォスターはちょうど20歳を過ぎた頃。シンシナティ市で兄ダニング(Dunning)が営んでいた運輸代理店「アーウィン・フォスター商会(the firm of Irwin & Foster)」の帳簿係(経理)として働いていた。
1848年のゴールドラッシュの流れに乗って大ヒットした「おおスザンナ」がきっかけとなったのだろうか。フォスターはちょうどこの頃、音楽を職業として作曲活動を始めるを決意し、数年間働いていた兄の商店も辞めてしまっている。
1850年(24歳) ジェーンとの結婚
プロの音楽家として作曲活動を続けていくことを決意した翌年には、彼は5歳年下の幼なじみ ジェーン<Jane Denny MacDowell)と結婚し、翌年には長女マリアンが誕生している。ジェーンは、「金髪のジェニー」のモデルとなっている女性としても有名。
ちなみに、スティーブンとジェーンとの仲に関する詳しい歴史的資料があまり存在しないためにはっきりとしたことはいえないのが、少なくとも周囲の目にはフォスター夫婦が不仲であるような印象に映っていたようだ(「フォスターの結婚生活」参照)。
ミンストレル・ショーとの深い関わり
フォスターが作曲した曲の多くは、「クリスティー・ミンストレルズ」というグループが「ミンストレル・ショー」で演奏するためのものだった。「ミンストレル・ショー」とは、白人が焦がしたコルクで顔を黒く塗り黒人のかっこうを真似て歌い踊るショーの一形態で、フォスターの幼少期から大変人気があった。
フォスターはクリスティーミンストレルズのリーダーであったエドゥイン・クリスティー(Edwin P. Chrisy)と交流があったようで、彼との専属的に交わした契約なども資料として現在まで残されている。
1849-1854年 次々と生まれるヒット曲 ~作曲家としての絶頂期~
夢みる人―作曲家フォスターの一生 |
プロの音楽家として活動を開始し、ジェーンとの結婚を果たした頃のフォスターは、恐らく気力・能力共に最も充実していた頃だったと思われる。この頃のヒット曲は次のとおり。
- 1849年 「ネリーは淑女」
- 1850年 「草競馬」
- 1851年 「故郷の人々(スワニー河)」
- 1852年 「主人は冷たい土の中に」
- 1853年 「懐かしきケンタッキーの我が家」
- 1854年 「金髪のジェニー」
毎年のようにヒットを飛ばしていたフォスターだったが、この頃を過ぎると、彼の曲はあまり以前のような人気を得ることはなくなり、生活も徐々に苦しくなっていくのだった。
1855年(29歳) 両親と兄弟を失う
スティーブンが30代にまもなく入ろうとしていた1855年には、父ウィリアム・バークレー・フォスター、母エライザ・クレイランド・トムリンソン、そして兄ダニングが相次いで亡くなっている。やはりフォスターにとって相当ショックだったのだろうか。作曲活動的にもこの頃から徐々に陰りが見えはじめ、フォスターは徐々に精神的にも経済的にも追い詰められていった。
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