ジェーンとの結婚生活 長女マリアン誕生

19世紀アメリカ民謡の父 フォスター特集

ゴールドラッシュと「おお、スザンナ」の大ヒットの大きな波に乗り、フォスターがプロとしての作曲活動を始めて間もない1850年(24歳)、5歳年下の幼なじみであったジェーン(Jane Denny MacDowell)との結婚生活がスタートした。

この頃のフォスターは、翌年には長女マリアンが誕生し、作曲活動においても「草競馬」、「故郷の人々」「主人は冷たい土の中に」など、毎年のようにヒット曲を生み出し、まさに絶好調の時期。

しかし、フォスターの芸術肌の性格からか、この幸せな時期は、結婚生活数年目にして早々と暗雲が立ち込めていたのだった。

結婚して3年後には別居状態?

1853年6月にフォスター姉ヘンリエッタが書いた手紙によると、夫フォスターと妻ジェーンは、この手紙を書いた時点で既に「別れていた」状態だったという。実際、ジェーンは長女マリアンを連れてピッツバーグの実家に帰ってしまっていた。

不仲になった妻とあまり顔を合わせたくなかったのか、フォスターは1853年から数年間、ニューヨークの出版社とピッツバーグを行ったり来たりしており、自宅にあまりいない状態が続いていたという。

フォスター夫婦の不仲の原因は?

彼らの不仲の理由は定かではないが、筆者の私見では、だいたい次の二つの点が大きな原因ではないかと推測される。

原因その1
フォスターの作曲活動のスタイルについていけなかった

普段のフォスターはジェーンに対してとても優しく、パートナーとしても特に非の打ち所はなかったという。ところが、いったん作曲活動に入りだすと、今で言う「引きこもり」状態に突入。精神的にもかなりカリカリしはじめ、まるで別の人間になっていたようだ。

一般的に、芸術家や小説家・音楽家などが缶詰状態で創造的活動に没頭するというのは何も珍しいことではないかも知れない。ただ、育ちの良い裕福な家庭のお嬢様だったジェーンは、年齢的にも環境的にも彼の創作スタイルを広い心で受け入れるだけの精神的成熟に達していなかったのだろう。

原因その2
女性への幻想と現実のギャップ

芸術家は一般的に右脳が発達しており、頭の中で空想やイメージを膨らませる能力が非常に優れていると言われる。

音楽家であるフォスターも恐らくその一人で、ジェーンに対して結婚前から少なからず何らかの非現実的なイメージを抱いており、それが「結婚」によって強制的に「現実」に引き戻され、ある種のショックを受けたのではないか。

結局のところ二人はどうだったのか?

よく考えてみれば、フォスターはアメリカで始めて音楽で生計をたてようと努力したパイオニア的存在であり、当時の彼が感じていたプレッシャーは並大抵のものではなかっただろう。しかも当時のアメリカは南北戦争の真っ只中で周囲は混乱しているし、作曲活動を続けながら満足に生活していくのも大変だった頃だ。

フォスターもジェーンもある程度中流階級の家庭に生まれ育っており、若干生活感が欠けていたことも彼らが家庭を維持していくのに妨げとなったかもしれない。

ただ、い彼らが周りの人間からみて不仲であったと評価されていたとしても、彼らは彼らなりに一生懸命家庭を維持しようとしていたことは想像に難くない。実際、フォスターが亡くなった時に駆けつけた奥さんは、その場で泣き崩れたという記録も残っている。

ちなみに、スティーブン・フォスターの死後、ジェーンはパート先の職員とちゃっかり再婚している。ちょっとがっかりしたのは私だけだろうか。

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