青葉の笛 歌詞の意味

一の谷の戦いで義経が奇襲 討たれし若き平敦盛

『青葉の笛(あおばのふえ)』は、1906年(明治39年)に発表された尋常小学唱歌。作詞:大和田 建樹、作曲:田村 虎蔵

歌いだしの歌詞は「一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の公達(きんだち)あわれ」。平安末期の源平合戦「一の谷の戦い」が題材。歌詞の意味・歴史は後述する。

一番の歌詞では平 敦盛(たいらの あつもり)、二番の歌詞では平清盛の異母弟・平 忠度(たいら の ただのり)が題材となっている。

ちなみに、兵庫県神戸市須磨区の須磨寺には、敦盛の愛笛「青葉の笛」とされる笛が保管・展示されている(詳細は後述)。

鉄拐山中腹から眺めた須磨浦・一ノ谷古戦場 (神戸市須磨区)

【試聴】 歌:小鳩くるみ 『青葉の笛』

歌詞

一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ
今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌

一番の歌詞の意味・歴史

「一の谷の軍(いくさ)」は、平安時代の末期(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた源平合戦「一の谷の戦い」のこと。源義経の奇襲で平氏は潰走した。

「公達(きんだち)」とは、一般的に上流貴族の子弟・子女に対する呼称。特に平安時代末期には平家の子弟・子女を意味していた。ここでは平敦盛(あつもり/清盛の甥っ子)を指している。

横笛の名手・若き平敦盛

義経の奇襲後、若き平敦盛は逃げ遅れ、源氏の熊谷直実と一騎打ちになった。敦盛は横笛の名手として知られており、戦場でも名笛「青葉」(小枝/さえだ)を身に着け、演奏もしていた。

直実は敦盛を組み伏せ、首を取ろうと敦盛の顔を見ると、彼は息子と同じ年頃の美しい若武者だった。ためらう直実だったが、泣く泣く敦盛を討ち取った。そこには「青葉の笛」が。

「ああ、嵐の戦場で聞こえていたのは、この笛の音だったのか」

直実は無情を悟り、後に出家して高野山に登った。後の芸能・幸若舞(こうわかまい)の演目『敦盛』は、この敦盛と直実の一騎打ちを題材としている。

ちなみに、織田信長の舞い「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」は、幸若舞『敦盛』における、無常の世を儚んで出家する直実の一節である。

二番の歌詞の意味・歴史

『青葉の笛』二番の歌詞の主人公は、清盛の異母弟・平忠度(たいらの ただのり)。歌人としても優れており、後の『千載和歌集』撰者である藤原俊成に師事した。

忠度は平家都落ちの途中で引き返し、藤原俊成の屋敷に赴いて、自分の歌を多数おさめられた巻物を託した。これが二番の歌詞の一・二行目の内容。

二番の歌詞の三・四行目の内容は、一の谷の戦で命を落とした忠度の最期の様子。矢を入れておく腰カゴである箙(えびら)には、次のような歌が結びつけられていたという。

行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし

意味:旅の途中で日が暮れてしまい、木陰を宿とすれば、花が今夜の宿のあるじとなるだろう。

なお、この歌には本歌がある。

春来てぞ 人もとひける 山里は 花こそ宿の あるじなりけれ

<藤原公任「拾遺抄」>

須磨寺に残る「青葉の笛」

下写真は、兵庫県神戸市須磨区の須磨寺に伝わる「青葉の笛」(中央右側)。長さは37㎝。

弘法大師が唐へ留学中、長安の青龍寺にある「天笠の竹」から作り上げたとされる。日本へ帰国後に嵯峨天皇に献上され、「青葉の笛」と名付けられた。

その後皇室から平家の手に渡り、平敦盛の愛笛として歴史に刻まれている。

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