天高く馬肥ゆる秋 意味・由来は?

元となった中国の故事とは?秋の敵襲に備えよ!

ことわざ「天高く馬肥ゆる秋」(てんたかく うまこゆるあき)では、空が澄み渡り高く見える秋ごろ、馬たちも過ごしやすく食欲も増してたくましく育つ、といった秋の快適な気候が表現されている。

澄んだ秋空や快適な秋の気候を表現する決まり文句のような意味合いで使われているが、元となった中国の故事では前後の文脈がかなり異なっていたようだ。

「天高く馬肥ゆる秋」は、一体どんな故事に由来しているのか?簡単にまとめてみた。

中国の故事 秋の敵襲に備えよ

「天高く馬肥ゆる秋」の元となった中国の故事とは、唐の詩人・杜 審言(と しんげん/645-708)の詩「蘇味道に贈る」に記された前漢時代の出来事。「蘇味道」とは、この詩を贈られた詩人の名前。

秦滅亡後に建てられた中国の王朝・前漢(紀元前206年-8年)では、北方の遊牧国家・匈奴(きょうど)との争いが激化していた。

当時既に万里の長城の一部は建設されていたが、匈奴の侵入を防ぐのに十分ではなかった。

「百聞は一見に如かず」の将軍・趙 充国

匈奴との戦いを指揮したのは、ことわざ「百聞は一見に如かず」で有名な前漢の将軍・趙 充国(ちょう じゅうこく/紀元前137-紀元前52年)。

匈奴は秋になると収穫物を奪いに強い騎馬で侵入してくることが多かった。

そのため、趙将軍は次のように述べて、敵襲に備えよと皆に警戒を促した。

雲浄くして妖星落ち 秋高くして塞馬肥ゆ
(くもきよくして ようせいおち あきたかくして さいばこゆ)

妖星とは不吉な出来事の前兆(流星など)、「塞馬」とは北方の馬、ここでは騎馬民族・匈奴の馬のこと。

意味としては、秋になると匈奴の馬が大きく強く育ち、その馬で攻め込んでくるから警戒せよといった内容となる。

匈奴はその後大飢饉に見舞われて弱体化し、90年代前半に滅亡した。分裂した南匈奴は後漢に服従した。

匈奴滅亡後、「天高く馬肥ゆる秋」は、秋の到来や快適な気候を表現する現代のような意味合いで使われるようになった。

趙将軍は言った「百聞は一見にしかず」

「天高く馬肥ゆる秋」を生んだ趙将軍はその後、西側の羌族(きょうぞく)との戦いで新たな格言「百聞は一見にしかず」を生み出した。

既に老齢になっていた趙将軍だったが、皇帝(宣帝)に対して「自分の目で確かめたい」と熱く持論を述べた。

詳細は、「百聞は一見にしかず 意味・由来・歴史」のページで。

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