ヴァイオリン協奏曲 シベリウス

ジャン・シベリウス(Jean Sibelius/1865-1957)

『ヴァイオリン協奏曲 ニ短調』作品47は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスが1903年に作曲したシベリウス唯一の協奏曲。

1904年2月に初演されたが、曲自体の難易度の高さや準備期間の不足などが原因で、評価は芳しくなかったようだ。下写真はシベリウスの邸宅「アイノラ」。

しばらくして改訂され、1905年10月にリヒャルト・シュトラウスの指揮によりベルリンで改訂版が初演された。

その後、ヤッシャ・ハイフェッツやダヴィッド・オイストラフなどの名ヴァイオリニストらが同曲を取り上げることで、シベリウス『ヴァイオリン協奏曲』は現代の演奏家らのレパートリーとして定着していった。

【YouTube】 Sibelius Violin Concerto - Maxim Vengerov, Daniel Barenboim

改訂までの1年間に何があった?

上述のとおり、シベリウス『ヴァイオリン協奏曲』は1904年2月に初演され、1905年10月に改訂されている。

このおよそ1年の間に、シベリウスは何を経験していたのだろうか?主に二つの点が挙げられる。

ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』

まず、Wikipediaの解説によれば、シベリウスは「初演後の1905年にブラームスのヴァイオリン協奏曲を初めて聴いた」という。

ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』は1878年作曲。ベートーヴェンメンデルスゾーンの作品と並び、「3大ヴァイオリン協奏曲」と称賛される名曲。

初演後に「初めて聴いた」という記述が事実ならば、シベリウスはこの名曲から改訂版へつながる新たなインスピレーションを受けたことだろう。

新居「アイノラ」への移住

もう一つの大きな出来事としては、1904年秋頃の新居「アイノラ」への移住が挙げられる。

シベリウスは大変な浪費家で、度を越えた酒やタバコ、交遊費などで自堕落な生活を送っていたという。

見かねた妻アイノは、誘惑の多い都会から田舎への移住を提案。シベリウスは首都ヘルシンキから40キロほど離れたヤルヴェンパー(Järvenpää)のトゥースラ湖畔(下写真)に邸宅を建設し、1904年秋頃に家族とともに移り住んだ。

この新居は、シベリウスの妻である「アイノの場所」という意味で「アイノラ Ainola」と名付けられた。著名な建築家ラルス・ソンク(Lars Sonck)に設計を依頼したという。

シベリウスは、1957年に亡くなるまで生涯このアイノラに住み続け、作曲活動に打ち込んでいった。『ヴァイオリン協奏曲』改訂版の誕生は、このアイノラが一つの大きなきっかけになっていたのかもしれない。

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