梅が枝の手水鉢 歌詞の意味
なぜ手水鉢を叩くの?ルーツは源平合戦?
『梅が枝の手水鉢』(うめがえのちょうずばち)とは、江戸末期から明治初頭の作家・仮名垣 魯文(かながき ろぶん/1829-1894)の作とされる俗曲・流行歌。『梅が枝節』(うめがえぶし)とも題される。
歌詞の元ネタは、『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき)を元にした江戸中期の浄瑠璃『ひらかな盛衰記』。梶原景季(かじわら かげすえ)の妻(恋人)・梅が枝(うめがえ)に関連する場面に由来している(詳細は後述)。
メロディは、中国から伝来した明清楽(みんしんがく)に由来する江戸時代の俗謡『かんかんのう』がベースとなっている。
手水鉢(ちょうずばち)とは、神前・仏前で身を清めるための水の器。茶の湯・茶道では、手水で手を洗うために石の器で露地(茶庭)に設置される。
写真:青蓮院の一文字型手水鉢(京都市東山区/出典:Wikipedia - PlusMinus)
【YouTube】 梅が枝の手水鉢 流行歌謡集 明治初期
歌詞(元歌)
梅が枝の手水鉢
叩いてお金が出るならば
若しもお金が出た時は
その時や身請をそれたのむ
補足
身請(みうけ)とは、江戸時代において、芸娼妓などの借金を第三者が代わりに全額支払うことで、稼業から解放させてやること。
金持ちになれる?「無間の鐘」伝説
『梅が枝の手水鉢』の歌詞は、静岡県掛川市に伝わる「無間の鐘」(むけんのかね/むげんのかね)伝説が元になっている。
旧東海道の難所「小夜の中山(佐夜の中山)」(さよのなかやま/さやのなかやま)近くには、かつて曹洞宗の観音寺があった。
写真:小夜の中山の夜泣き石(出典:WIkipedia)
この寺にある「無間の鐘」をつくと、この世では金持ちになれるが、その代償として来世では無間地獄に落ちるという。
無間地獄は阿鼻地獄(あびじごく)とも呼ばれ、地獄の中でも最も長く苦しみを味わう世界。「無間」は間断のないことを意味する。
ちなみに、「無間の鐘」を求めて大勢の人々が寺を訪れたが、危険な山道で多くの人が命を落とした。これ以上の犠牲者を出さないため、鐘は井戸に投げ捨てられてしまったという。
その井戸は、静岡県掛川市の粟ヶ岳(あわがたけ)山頂付近にある阿波々神社(あわわじんじゃ)に現在も残されている。
写真:粟ヶ岳(静岡県掛川市/出典:Wikipedia)
浄瑠璃で手水鉢に変化
江戸時代中期の浄瑠璃では、手水鉢を無間の鐘になぞらえて打つ演出が生まれ、この場面では長唄『傾城(けいせい)無間の鐘』が演奏された。
『源平盛衰記』を元にした江戸中期の浄瑠璃『ひらかな盛衰記』では、鎌倉幕府の御家人・梶原景季(かじわら かげすえ)の妻・梅が枝(うめがえ)が、夫の戦の費用を捻出するため、自分は地獄に落ちる覚悟で、「無間の鐘」に見立てた手水鉢を叩く。
梅が枝が手水鉢を叩く場面が、「梅が枝の手水鉢 叩いてお金が出るならば」という歌詞の由来・元ネタとなっている。
二人を見守る母親の愛
梅が枝の元の名は千鳥。夫(恋人)の梶原景季が父・景時から勘当された際、景季を経済的に支えるために「梅ヶ枝(梅が枝)」と名乗る遊女になった。
景季の母・延寿は、二人のことをいつも気にかけて陰ながら見守っていた。
やがて戦が始まり、景季も出陣することになったが、肝心の鎧(よろい)は質入れしてしまっていた。夫が戦に出て手柄を上げるにはどうしてもお金が必要。切羽詰まった梅が枝は「無間の鐘」の伝承を思い出し、庭の手水鉢をひしゃくで叩いた。
すると、家の二階から三百両もの金が降ってきた。それは、陰ながら二人を心配していた景季の母・延寿からの情けの金だった。
梶原景時と梅の枝
鎌倉幕府の御家人・梶原景季(かじわら かげすえ)には、梅の枝にまつわる「箙の梅(えびらのうめ)」という伝承が残されている。
箙(えびら)とは、矢を入れておくために戦の最中に背負うカゴのこと。景季はそこに梅の枝を入れて戦った。
下の挿絵は、江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による梶原景季と「箙の梅」(出典:Wikipedia)。
『源平盛衰記』によれば、平安末期の「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」では、景季は箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、「坂東武者(関東の武士)にも雅(みやび)を解する者がいる」と敵味方問わず賞賛を浴びたという。
この景季と梅の枝との関連が、後の『梅が枝の手水鉢』のストーリーにつながっているのは想像に難くない。
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