メキシコ革命と英雄パンチョ・ビリャ
『ラ・クカラーチャ』で歌われた英雄パンチョ・ビリャが活躍
メキシコ革命は、1910年から1917年にかけてメキシコで起きた革命。 ディアス独裁政権の打倒や民主化、農地改革、社会構造・経済構造の変革を目指し、現代のメキシコの基礎が確定された。
メキシコ民謡『ラ・クカラーチャ』でも歌われた英雄パンチョ・ビリャ(Pancho Villa)が革命軍の一角を担った。
このページでは、パンチョ・ビリャ(Pancho Villa)をキーワードとして、メキシコ革命の流れを大まかに解説してみたい。
写真:パンチョ・ビリャ(出典:Wikipedia)
ディアス大統領の圧政
1877年に就任した当時の大統領ポルフィリオ・ディアスは、一般国民(特に貧しいインディオ・農民等)の生活を著しく脅かしていた。
ディアスは、地下資源に対する国家主権という植民地時代以来の伝統を廃止し、鉱山・石油・鉄道などを次々に外資の管理下においた。そして国民の厚生には目もくれず、得た利潤を対外債務の返済や軍隊などに費やしていった。
さらに、先住民の共有地・国有地などを、極端に安い価格でメキシコ人有力者や外国人投資家に払い下げた。
その結果、大農園(アシェンダ)が形成され、農村では土地を奪われた人々が小作(ペオン)として大農園(アシェンダ)に生涯を縛り付けられ、自由のない貧困生活に喘いでいた。
後のメキシコ革命で活躍するパンチョ・ビリャ(Pancho Villa)が誕生したのは、ディアス政権誕生の翌年(1878年)のことだった。
メキシコ革命勃発
1910年、ディアス独裁に反対して彼の再選禁止を唱えるフランシスコ・マデロによって、以後7年間にわたって続くメキシコ革命の口火が切られた。
アメリカに亡命していたマデロは、滞在先のテキサス州サン・アントニオ市から、メキシコ国民に公然とディアス政権への宣戦布告と反乱を呼びかける「サン・ルイス・ポトシ綱領」を発表。
同年に行われた大統領選挙は無効であり、ディアスの大統領就任は違法であること、従って暫定的に自分マデロが臨時大統領となり、憲法にのっとり政治改革を行い民主政治を実現すると宣言された。
革命軍に加わるパンチョ・ビリャ
メキシコ革命が始まったとき、パンチョ・ビリャは32歳だった。彼はこの頃、チワワ市の北のはずれに家と土地を購入しており、盗んだ家畜を解体して売り飛ばした経験を生かして食肉業を営んでいた。
その商売上、ビリャは「アブラアム・ゴンザレス」という財務行政官と知り合った。ビリャは、反ディアス政権運動の中心人物であったゴンザレスにひそかにゲリラ部隊を組織するように頼まれ、メキシコ革命運動に加わることになった。
1911年3月、ビリャのゲリラ軍はマデロ臨時政府軍に合流。解放軍北部第一師団として、革命軍部隊の指揮官の一人として認められるまでになった。
1911年5月末にディアスは大統領を辞任し国外へ逃亡。同年11月にマデロが選挙によって正式な大統領に就任した。
宿敵ビクトリアノ・ウエルタ登場
マデロ大統領の命令で、ビリャは政府司令官ビクトリアノ・ウエルタ将軍の指揮下に。しかし、根っからのエリート軍人であるウエルタとビリャの溝は深く、両者はまったくウマが合わなかった。
写真:ビクトリアーノ・ウエルタ(Victoriano Huerta/1850-1916)
ついにある日、ビリャはささいな揉め事を起こし、ウエルタの命令で逮捕されてしまう。処刑まで話は進んだが、寸前のところでマデロの延期命令によって命拾いをした。
マデロはウエルタの顔を立てるためにビリャを陸軍刑務所に入れることで、事態を収拾したが、ビリャは刑務所を脱獄してアメリカのアリゾナ州へ逃亡した。
ウエルタによるクーデター勃発
1913年2月、ウエルタによるクーデターが起こり、マデロは殺害され、ウエルタが次期大統領に就任した。
当時チワワ州知事をしていたアブラアム・ゴンザレスは、大統領に就任したウエルタへの忠誠を拒否したため、ウエルタによって逮捕され、汽車の車輪で処刑されてしまう。
1913年3月、ビリャはマデロの虐殺に報復するためメキシコに帰国。ビリャが心から敬愛していたマデロとゴンザレスは、二人とも憎きウエルタの手でなぶり殺されてしまった。
しかもそのウエルタは、かつて自分をささいな理由で処刑しようとした人間。ウエルタに対するビリャの復讐心は並大抵のものではなかっただろう。
義勇軍を立ち上げるビリャ
マデロやゴンザレスといった有力な指導者を欠いたビリャは、今度は自分一人で義勇軍部隊をつくり、育て上げなければならなかった。
元から人望も厚く、その名はメキシコ中に知れ渡っていたビリャは、地方の村や農園を回って、瞬く間に義勇兵を集めることに成功。
写真:戦いに赴くパンチョ・ビリャ(出典:Wikipedia)
1913年春から夏にかけ、チワワ州北西部の山間部にある小さな町アセンシオンを基地として、ビリャは北メキシコで最も強力な革命軍部隊を作り上げていった。
ビリャ司令官誕生
1913年8月、ビリャはアセンシオンを出て南に向かい、各地のウエルタ軍への攻撃を開始。
数百キロ離れたトレオン攻略のために移動中、各地の首領たちがそれぞれの配下を連れてビリャ軍に続々と加わり、最初数百名ほどだったビリャ軍は数千の兵を擁する大軍に膨れ上がっていった。
トレオン市を目前にしたナサス河畔のある大農園の館に宿営したとき、彼ら首領たちは合同作戦会議を開いた。
会議に出席した首領たちは、それまで各地でバラバラに政府軍とゲリラ戦を展開していた雑多な武装集団の長たちだったが、これをひとつに統合して、司令官をパンチョ・ビリヤとする「護憲軍北部師団」を結成することに合意した。ビリャ軍誕生の瞬間である。
ウエルタは大統領を辞職しイギリス、スペイン、アメリカへ亡命するが、1915年にアメリカで逮捕された。過度の飲酒がたたり、翌1916年に肝硬変で死去した。
革命軍の統領カランサと対立
ビリャ軍は快進撃を続けたが、革命軍の統領カランサと対立。カランサはビリャ軍を妨害し、先に首都メキシコ市に入城を果たした。
写真:ベヌスティアーノ・カランサ(出典:Wikipedia)
カランサは他の革命軍との戦闘を開始。兵力で勝っていたビリャ軍だったが、カランサ軍は第一次世界大戦の新戦法を取り入れ、戦場に塹壕と鉄条網を張り巡らせ、機関銃でビリャ軍の騎兵を撃退した。
革命終結 求心力を失うカランサ
支配権を握ったカランサは、1917年の革命憲法を制定。この時点で実質的にメキシコ革命は終結を迎えた。
カランサの意に反して、彼の陣営の将軍たちが制定した憲法は、農地改革や労働者の権利保護など、彼らの敵であったビリャ派らの主張を大幅に取り込んだ進歩的な内容となっていた。
しかしカランサは、事実上この憲法の内容を無視して政治を進め、カランサの求心力は急激に低下していった。
それに対し、柔軟な考え方で農地改革などの社会改革の必要性を強く認識していたオブレゴン将軍の人望が高まっていった。
カランサの最期
この状況に危機感を抱いたカランサは、オブレゴンを政府から退け、さらに大統領に立候補しようとするのを妨害し、逮捕しようとする。1920年1月、オブレゴンは故郷のソノラ州に逃亡して、4月にはカランサに対する反乱を宣言した。
ほとんどの将軍たちはオブレゴンにつき、ビリャ派とサパタ派の残党もオブレゴン派についた。カランサはプエブラ州の山中を逃げまどったあげく、反乱軍に射殺された。
最終的な勝者となったオブレゴンは1920年6月大統領選に当選。ビリャ派・サパタ派の残党と最終的な和平協定を結び、内戦は収束に向かった。
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