百聞は一見にしかず 意味・由来・歴史
「自分の目で確かめたい」前漢の将軍・趙充国は答えた
「百聞は一見にしかず」(ひゃくぶんはいっけんにしかず)は、人から何度も聞くより、一回自分の目で確かめる方が良く分かる、という意味のことわざ。
起源は中国。ことわざ「天高く馬肥ゆる秋」で知られる前漢の将軍・趙 充国(ちょう じゅうこく/紀元前137年-紀元前52年)の発言に由来している。
名将・趙充国はどのような状況で誰に「百聞は一見にしかず」と発言したのだろうか?関連する中国の歴史と発言内容について簡単にまとめてみた。
写真:中国甘粛省天水市にある趙充国像
北と西の部族との戦い
趙充国が将軍として活躍していた前漢(紀元前206年-8年)では、北は騎馬民族・匈奴(きょうど)、西は羌族(きょうぞく)から度々襲撃を受けていた。
秋になって肥えた馬で攻めてくることから、趙充国は「天高く馬肥ゆる秋」の名言で警戒を促していた。
「百聞は一見にしかず」が関係してくるのは、西側の羌族(きょうぞく)との戦い。下の図は時代が違うが、3世紀頃の三国志の時代を示した中国の地図。
西端の黒字で「羌」と書かれた地域が羌族(きょうぞく)。三国志の時代には、羌族の血を引く馬騰(ばとう)・馬超(ばちょう)父子らが活躍した。
羌族討伐の将軍は誰に?
さて、話は紀元前の前漢の時代に戻る。紀元前61年に羌の反乱がおこり、前漢の宣帝は討伐の準備を開始した。
宣帝は趙充国将軍に遣いを出し、誰を討伐軍の将とすべきか尋ねた。当時、趙充国は70歳を超えていたため、彼自身を派遣することは考えていなかったようだ。
「私を超える者はいません」趙充国は答えた。
過去に北の騎馬民族・匈奴(きょうど)と戦い活躍した将軍とは言え、年齢を考慮すれば、さすがに本人に行かせるのはためらわれる。
遠くからでは兵は測れない
宣帝は再度尋ねさせた。「羌の軍勢はどれほどか。誰を用いるべきか」。
自分の目で確かめたいと、趙充国は次のように答えた。
百聞不如一見
兵難踰度
臣願馳至金城
図上方略意味:百聞は一見に如かず。遠くからでは兵は測れません。願わくは、急ぎ金城まで向い、そこから方略を献上したく存じます。
将軍の理にかなった返答に、宣帝はこれを笑って承諾。趙充国将軍本人を先兵として戦地へ赴かせた。
ことわざ「百聞は一見にしかず」はこうして誕生した。
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