歩兵の本領 歌詞の意味・解説

万朶の桜か襟の色 永井建子『小楠公』を転用した明治時代の軍歌

『歩兵の本領』(ほへいのほんりょう)は、1911年(明治44年)に発表された日本の軍歌。歌い出しの歌詞は「万朶(ばんだ)の桜か 襟の色」。『歩兵の歌』とも題される。

作曲者は、『雪の進軍』、『元寇』を手がけた永井 建子(ながい けんし/1865-1940年)。彼が1899年(明治32年)に発表した軍歌『小楠公』のメロディが転用されている。かつては『アムール川の流血や』が原曲と考えられていた。

旧日本軍 樺太の日ソ国境(50度線)を守備する国境警備隊

写真:樺太の日ソ国境(50度線)を守備する国境警備隊(出典:Wikipedia)

歌詞は、陸軍中央幼年学校(後の陸軍予科士官学校)第10期生であった加藤明勝が在校中に作詞したもの。

1911年(明治44年)に原詩が発表された後、歌詞は部分的に変更され、いくつかのバージョンが存在する。

現代の小学校、中学校、高校の運動会・体育祭などでは、応援歌として『歩兵の本領』の替え歌が歌われることがあるようだ。

このページでは、一般的な『歩兵の本領』の歌詞(一例)と原詩、その意味について簡単に解説する。

【YouTube】 歩兵の本領(歩兵の歌)

一般的な歌詞(一例)

1.
万朶(ばんだ)の桜か 襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子(やまとおのこ/をのこ)と生まれなば
散兵線の花と散れ

2.
尺余の銃(しゃくよのつつ)は武器ならず
寸余の剣(すんよのつるぎ)何かせん
知らずや 此処(ここ)に二千年
鍛え鍛えし大和魂(やまとだま)

3.
軍旗まもる武士(もののふ)は
全て其の数(そのすう)二十万
八十余ヶ所に屯(たむろ)して
武装は解かじ夢にだも

4.
千里東西波越えて
我れに仇(あだ)為す国在らば
港を出でん 輸送船
暫(しば)し守れや海の人

5.
敵地に一歩 我れ踏めば
軍(いくさ)の主兵は此処に在り
最後の決は我が任務
騎兵砲兵 協同(ちから)せよ

6.
亜耳伯士(アルプス)山を踏破せし
歴史は古く 雪白し
奉天(ほうてん)戦の活動は
日本歩兵の粋(すい)と知れ

7.
携帯口糧(こうりょう)有るならば
遠く離れて三日四日(よか)
曠野(こうや)千里に亙(わた)るとも
散兵線に秩序在り

8.
退く戦術(ことわ)我知らず
見よや 歩兵の操典を
前進前進 又(また)前進
肉弾届く所迄(まで)

9.
我が一軍の勝敗は
突喊(とっかん)最後の数分時
歩兵の威力は此処なるぞ
花散れ勇め 時は今

10.
歩兵の本領 此処に在り
嗚呼(ああ)勇ましの我が兵科
会心(えしん)の友よ 然(さ)らばいざ
共に励まん 我が任務

原詩(現代仮名遣い)

1.
万朶の桜か襟の色
花は隅田に嵐吹く
大和男子と生まれなば
散兵線の花と散れ

2.
尺余の銃は武器ならず
寸余の剣 何かせん
知らずや此処に二千年
鍛え鍛えし武士の魂(たま)

3.
軍旗守る連隊は
全て其の数二十万
八十余か所に屯(たむろ)して
武装は解かじ夢にだも

4.
千里東西波越えて
我れに仇為す国在らば
横須賀出でん輸送船
暫し守れや海の人

<5番から9番までは、上掲の歌詞と同じのため省略>

10.
嗚呼勇ましの我が兵科
会心の友よ来たれいざ
共に語らん百日祭
酒盃に襟の色映し

万朶の桜

小学館「デジタル大辞泉」によれば、万朶(ばんだ)とは、多くの花の枝、多くの花のこと。「朶」は垂れ下がった枝を意味する。

ちなみに、「一朶(いちだ)」は「一枝(ひとえだ)」「一輪の花」を表す。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では「一朶(いちだ)の白い雲」という表現が使われている。

明治維新から日露戦争までを描いたNHKドラマ「坂の上の雲」では、主題歌『Stand Alone』(スタンド・アローン)の中で「一朶の雲」という歌詞が登場する。

襟の色

「襟の色」とは、兵科・各部の定色(兵科色)を配した明治38年戦時服制および明治39年制式で制定された「襟章(えりしょう)」を意味し、歩兵科の定色「緋色(ひいろ)」を桜になぞらえている。

濃く暗い赤色を「茜色(あかねいろ)」というのに対して、最も明るい茜色を「緋色」という。

大日本帝国 兵科色襟章

写真:大日本帝国 兵科色襟章(出典:ブログ「昭和/平成の思い出をつづる」)

緋色(ひいろ)色見本

挿絵:緋色(ひいろ)色見本 一例

散兵線

散兵(さんぺい)とは、歩兵の戦闘隊形の一種で、兵士を密集させず、適当な距離をとって各所に配置する陣形。散兵で形成する戦闘線を散兵線という。

尺余の銃・寸余の剣

「尺余の銃(しゃくよのつつ)」の「尺(しゃく)」は長さの単位で、一尺はメートル法で換算すると約30.3cm(センチメートル)。

「尺余」は「一尺より少し長い」といった意味合い。

「寸余の剣(すんよのつるぎ)」の「寸(すん)」も長さの単位で、「寸」は「尺」の十分の一。

では、具体的に「尺余の銃」「寸余の剣」は一体どんな武器や刀剣を指しているのだろうか?

『歩兵の本領』が発表された1911年(明治44年)当時において、全長が「尺余」、つまり30cmあまりあった銃といえば、スミス・ウェッソン(S&W)モデル3(Smith & Wesson Model 3)あたりがこれに該当しそうだ。

Smith & Wesson Model 3 Russian

写真:S&W Russian Model No. 3(出典:Wikipedia)

ちなみに、日本の二十六年式拳銃や南部式大型自動拳銃の全長は23cm。

「寸余の剣」については、刃渡り3cmから5cmほどの小刀(アーミーナイフ)がこれに該当すると考えられる。

日本軍の古いアーミーナイフ 小刀

写真:日本軍の小刀・アーミーナイフ(出典:日本の武器兵器.jp)

『歩兵の本領』の歌詞では、短い拳銃は「武器ならず」(武器として役に立たない)であり、小刀は「何かせん」(何ができるというのか)と一蹴されているが、では当時どんな武器が主力として活用されていたのだろうか?

それが、次に述べる「三八式歩兵銃」である。

三八式歩兵銃

三八式歩兵銃(さんはちしきほへいじゅう)は、1905年(明治38年)に日本陸軍で採用されたボルトアクション方式小銃。三十年式歩兵銃を改良して開発された。

全長は127.6cm。三十年式銃剣の着剣時は166cmを超える。「尺余の銃」の数倍の長さだ。

三八式歩兵銃

三八式歩兵銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。以降、日本軍(海軍にも供与)の主力小銃として、シベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。

鍛え鍛えし大和魂

「尺余の銃は武器ならず」という歌詞に対して、三八式歩兵銃のようなライフル銃が武器として活用されたとの解釈がある一方で、続く歌詞「鍛え鍛えし大和魂」との関連で異なる解釈を試みる解説もネットで見られた。該当する歌詞を次のとおり抜粋する。

尺余の銃は武器ならず
寸余の剣何かせん
知らずや 此処に二千年
鍛え鍛えし大和魂

この異なる解釈によれば、日本軍の真の武器は銃器ではなく、二千年の歴史で受け継がれ鍛え上げられた「大和魂(やまとだましい)」であるという流れになる。興味深い解釈だ。

百日祭

大日本帝国における陸軍士官学校の予科では、卒業式挙行予定日から数えて100日前の日に、各生徒の兵科(兵種)や、原隊と称す配属任地(部隊)が決定された。

その後の陸軍将校としての人生が決まる重要な日であり、生徒らが内輪でこれを祝う伝統的な行事が「百日祭(ひゃくにちさい)」と呼ばれた(正式な行事ではなかったようだ)。

その他の意味

「亜耳伯士(アルプス)山を踏破せし」とは、紀元前におけるカルタゴの将軍ハンニバル・バルカによる「アルプス超え」の歴史が念頭に置かれている。

「奉天戦」とは、日露戦争において、双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満州の荒野で激闘を繰り広げた「奉天会戦」のこと。

「突喊(とっかん)」とは突撃のこと。英語では「charge(チャージ)」。主に歩兵が行う戦術で、敵の陣地などに突入し、敵を撃破しつつ占領する戦術。

「会心(えしん)の友」とは、気心のよく合った友人。「かいしんのとも」。

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