ギリシャ独立戦争 オスマン帝国の衰退

世界史・国際関係トピックス

古来ギリシャが属していた東ローマ帝国はオスマン帝国によって1453年に滅ぼされ、以後400年近くにわたってギリシャはオスマン帝国の支配を受けていた(右挿絵:オスマン帝国の国旗)。

1789年7月に勃発したフランス革命によりヨーロッパ各地で民族主義の機運が高まると、ギリシャでも弱体化していたオスマン帝国に対する反乱・革命が1821年に勃発した。これがギリシャ国歌の歌詞がモチーフとしているギリシャ独立戦争の始まりである。

右挿絵は、1821年3月25日、パトラ府主教ゲルマノスが聖ラヴラ修道院で十字架を掲げ、『自由か、さもなくば死か』とギリシャ人兵士らに戦いの宣誓を行った場面。なお、3月25日は今日においてギリシャ独立記念日(祝日)となっている。

エジプト参戦で壊滅的危機に

ギリシャの秘密組織フィリキ・エテリアを中心とした蜂起は、ロシアの援助を受けながらギリシャ軍とともに前半は有利な戦いを進めていたが、オスマン帝国の要請を受けたエジプト軍が1824年7月に参戦すると状況は一変。ギリシャ軍は壊滅寸前の危機的状況に陥った。

そこへ、オスマン帝国に対する革命に同情的であったイギリスフランスロシアが1826年に介入。ロシアによる本格的な軍事行動を恐れたオスマン帝国軍は徐々に撤退を開始し、ギリシャ軍は各地で勢いを盛り返していった。

<挿絵:1827年「ナヴァリノの海戦」/英・仏・露 連合艦隊とオスマン帝国・エジプト連合艦隊との海戦。ギリシャ独立戦争の転換点となった。>

さらに1828年、ロシアはオスマン帝国に対して宣戦布告し露土戦争が勃発。ロシア軍は仲裁の結果、オスマン帝国を宗主国とするギリシャの自治国化をオスマン帝国に受け入れさせたが、ギリシャにおけるロシアの影響力を懸念したイギリスフランスはギリシャの完全独立を主張。これにより、1830年2月のロンドン議定書によってギリシャの完全独立が認められた。

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ギリシャ国歌
オリンピックの閉会式では、ルーツとなった古代オリンピック開催地であるギリシャに敬意を表してギリシャ国歌が必ず演奏される