パンチョ・ビリャ Pancho Villa

メキシコ男の理想 "ムイ・オンブレ" と呼ばれたメキシコ革命の英雄

パンチョ・ビリャ(Pancho Villa/1878-1923)は、メキシコ革命で農民解放のために立ち上がったメキシコの革命家。

本名は、ホセ・ドロテオ・アランゴ・アランブラ(José Doroteo Arango Arámbula)。若い頃から「フランシスコ・ビリャ」を名乗っていた(フランシスコの愛称がパンチョ)。

「ビリャ」は「ビーリャ」、「ビジャ」、「ビージャ」とも表記される。

パンチョ・ビリャ

写真:戦いに赴くパンチョ・ビリャ(出典:Wikipedia)

渡辺建夫「メキシコ物語 英雄パンチョ・ビリャの生涯」(朝日新聞社)では、パンチョ・ビリャについて次のような解説がなされている。

インディオの血の濃い貧農の息子として生まれ、青年時代を山賊として過ごし、革命の勃発とともに身一つで参加、神出鬼没のゲリラ戦で常勝将軍の名をほしいままにし、革命勢力の一方の領袖(カウデイリョ)として首都に乗り込んでいった男。

「北メキシコのケンタウロス(半馬人)」と呼ばれたほど馬がたくみで不死身、闘牛、闘鶏が大好きで、また行く先々で女を愛し、女のために何度も結婚式を挙げ、仲間の死にはポロポロ涙をこぼし、裏切り者には容赦なく弾をぶちこんだ男。メキシコの男の理想とされる「本物の男(ムイ・オンブレ)」と言われた男。その死後長くインディオ・農民の心に生き、うたわれ、語られつづけた男。

パンチョ・ビリャの生い立ち

パンチョ・ビリャが生まれたのは、ディアス政権誕生の翌年1878年6月5日のこと。場所は、メキシコ北部のドゥランゴ州のサン・ファン・ゲル・リオの大農園(アシェンダ)で、彼の父はアシェンダで働く小作農だった。

当時のメキシコ農民の99パーセントは自分の土地をまったく所有しておらず、人口1%以下の家族が全メキシコの85%もの土地を所有し、大農園という形で大規模な農業経営を行い、その地方の政治・経済をほしいままに支配していた。

彼の父は彼が幼い時に亡くなっており、長男であったビリャは、大農園で働き、母・二人の妹・二人の弟とともに、貧しいながらもなんとか懸命に一家を支えていた。

彼は16歳のとき、農園主と衝突して山へ逃げ込んだ。彼はその地域の山賊などに加わり、家畜泥棒などをして生き延びていった。稼いだ金は母親のもとに送り届けていたという。

一時期、ビリャはドゥランゴ州を荒らしまわっていた山賊の一味に加わっていたが、警官隊との撃ち合いで一味の領主が死ぬと、ビリャはそれまでのドロテオ・アランゴの名を捨て、死んだ首領の名「フランシスコ・ビリャ」を名乗るようになった。

パンチョ・ビリャ

写真:パンチョ・ビリャ(出典:Wikipedia)

彼は山賊の名を継ぐことで山賊の首領となったが、単に偶然に名前を継いだだけではなく、彼には山賊の首領となるべき貫禄が、つまり人を惹きつけ統率する力があった。

体も大きく、身長が180センチ、体重が90キロ近くあり、メキシコ人の平均からするとかなり大柄だった。

メキシコでは、山賊と泥棒はまったく違うものとされており(山賊は金持ちからだけ奪い、奪った金をときには貧しい者に分け与える義賊)、20代を通じて山賊としての名を高めていくにつれ、ビリャの名は土地の貧しいインディオ・農民にとって伝説的な響きをもつまでになっていった。

メキシコ革命とパンチョ・ビリャ

ビリャはメキシコ革命でゲリラ軍を率い活躍したが、革命政府司令官ビクトリアノ・ウエルタ将軍と対立。一時期アメリカへ亡命していた。

写真:ビリャ(中央)とアメリカ陸軍パーシング元帥、パットン中将

ウエルタがクーデターを起こすと、ビリャはメキシコに帰国。打倒ウエルタの反旗を掲げて義勇軍を結成した。

ウエルタは海外へ亡命したが、ビリャは革命軍の統領カランサと対立し、カランサとの戦闘に大敗北を喫する。

カランサの制定した1917年革命憲法によりメキシコ革命は事実上終結。その後オブレゴン大統領と和平協定を結んだ。

なお、メキシコ革命の詳細については、こちらのページ「メキシコ革命と英雄パンチョ・ビリャ」で解説している。

パンチョ・ビリャの最期

ビリャ軍は1920年の和平協定で武装解除され、武器を捨てたビリャたちは、畑を耕すため故郷のチワワ州・ドゥランゴ州へと帰っていった。

彼は、政府から給付された農園で、彼の三人の妻と6人の子供、護衛の男達や元同志その家族たちと住み、農業経営に乗り出していった。ビリャ自身も仲間達と土まみれ汗まみれになって働いていた。

農業経営もうまくいき、新たにホテル経営もするなどすべて順調だったが、1923年7月20日、古い友人の子供の名付け親になるために出かけた帰りの街道で、街の片隅で待ち構えていた数人の男達の銃弾を受け、帰らぬ人となった。享年45歳。

ビリャと敵対関係にあったオブレゴン一党が権力を握っていたため、彼の名はずっと長い間メキシコ革命の正史から抹殺されていた。

様々な議論の末、彼の名がメキシコ議会で革命の功労者として認知され議会の壁面にその名が刻み込まれるまで、彼の死後43年かかっている。

そしてその7年後の1973年に行われたビリャ50周年忌の式典に、当時の大統領エチェベリアが出席して、彼の名誉は完全に回復されることとなった。

参考文献

・「メキシコ革命物語 英雄パンチョ・ビリャの生涯」/渡辺建夫/朝日新聞社
・「メキシコ革命 近代化のたたかい」/増田義郎/中央公論社
・「ラテンアメリカ 人と社会」/中川文雄・三田千代子/(株)新評論
・「国際情勢ベーシックシリーズ⑨ラテンアメリカ」/加茂雄三 他/(株)自由国民社

関連ページ

メキシコ革命と英雄パンチョ・ビリャ
メキシコ民謡『ラ・クカラーチャ』で歌われた英雄パンチョ・ビリャが活躍
ラ・クカラーチャ 歌詞と意味
NHK「みんなのうた」では『車にゆられて』として替え歌されたメキシコ民謡