フォスター30代から晩年まで
北部州・南部州の対立激化

19世紀アメリカ民謡の父 フォスター特集

フォスターが30代前後のアメリカでは、黒人奴隷を使って綿の大量生産を行っていた南部州と、工業中心で奴隷制度には反対していた北部州との対立が日増しに激化していた。

ついに1860年代前半には、サウスカロライナ、ミシシッピー、フロリダ、アラバマなどの南部11州がアメリカ連邦を脱退。以後1865年まで続く未曾有の国内戦争、いわゆる「南北戦争」の火蓋が切られた。

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徐々に歌われなくなるフォスター歌曲

南北戦争が始まると、フォスターの曲の発表の場として重要な位置を占めていた「ミンストレル・ショー」が行われなくなり、フォスターの曲が人々に触れる機会が徐々に減っていった。

また、フォスターは北部側の人間だったため、南部の人間から敬遠されるようになったばかりでなく、フォスターの曲は黒人をテーマに扱ったものや黒人なまりの歌詞が多かったために、奴隷反対の北部からも拒絶されるという板ばさみにもあっていた。

借金もふくらみ飲酒の機会も増えていく

曲が以前のように売れなくなれば、当然収入もそれにつれて少なくなり、フォスターの生活は日増しに苦しいものとなっていった。やけ酒が習慣化し、酒代もばかにならない金額になっていた。なんとか日々の生活費を捻出しようと、楽譜出版社に印税の前借りを要求したり、兄弟から借金をしたりと、精神的にも経済的にも切羽詰った状態だった。

ホテルの一室での不幸な事故

フォスター名歌のすべて

晩年のフォスター(34歳~37歳)は、出版社の関係でニューヨークに移り住んでいた。引っ越した当時は奥さんも子供もついてきたが、何故かすぐにピッツバーグへ子供を連れて奥さんは帰ってしまっていた。

晩年の彼にはもはや音楽的才能を見出すことはできず、この頃に書かれた曲で後世まで受け継がれてきた曲はほとんどなかった。

ろくな収入もなく、安宿の一室を自宅代わりにして、わずかながらの蓄えを切り崩しながら、なんとか生活を続けていた。

大怪我でベルビュー病院にかけこまれたが・・・

そんなすさんだ生活を送っていた1864年1月10日、フォスターは顔や首のあたりから大量に出血して倒れているところをホテルの室内係の女性に発見され、ニューヨーク市のベルビュー病院(Bellevue Hospital)に担ぎ込まれた。

この事故のあった数日前、フォスターは何らかの病気で発熱し、寝込んでいたという。事故の当日は意識が朦朧としており、ふらふらとベッドから起き上がろうとしてバランスを崩し、すぐ近くにあった洗面台に頭から倒れこんでしまったとされている。洗面台はこなごなに割れ、彼も頚部に深い傷を負った。そこから大量に出血し、あたりは血の海状態だったという。

ホテルの室内係によって発見されたのが若干遅かったことと、当時の輸血技術がまだ今日と比べて遅れていたことなどが重なり、手当ての甲斐も空しく、搬送されてから3日後の1864年1月13日、スティーブン・コリンズ・フォスターはその37年の生涯を静かに閉じた。

なお、フォスターの名曲『夢見る人(夢路より)』が出版されたのは、フォスターの死後まもない1864年のことである。

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